一歩も、動けなかった。ただ、見ているだけで精一杯だった。
蹄の去った方向の反対側。窪みの正面。みなの姿が露に晒されているその先に、突如立ち並んだ黒い影。
別にいたのだ、仲間が。二手に分かれていたのだ、奴らは。より確実に、より効率的に、より残酷に獲物を狩るために。奴らは罠を仕掛けたのだ。
それらのことを、全てが終ってからキャンディは知った。高く足を掲げた一頭の馬が、風よりも速く、突進する。槍の先が、恐ろしいほど美しく煌き、脇を掠める。鈍い音が響き、飛沫が頬を濡らす。
馬が、また嘶いた。天に突き上げられた槍が、地に影を落とす。先には、だらりと下がった、小さな体――。
……ニコル。
止まった時の中で、キャンディは喘いだ。その言葉だけが世界を占める。天を呪い、地を呪い、己を呪う。ほとばしる慟哭が、血の叫びとなっても、まだ動けぬ自分を呪う。
「……ニコル!」
絶叫が胸を突く。その悲鳴が渦を巻き、荒れた大地を震わせた瞬間、キャンディの目に光が射し込んだ。
大きく目を見開く。息を、詰める。
最初、それは朧な光だった。槍の先にぽつりと灯った、青く淡い輝き。いや、光っているのは槍ではない。ニコルの体。貫かれたその胸の辺りから、光が零れている。
澄んだ煌きが、まるで血のように槍を伝う。そのまま光が浸食していく。
「……な……に?」
黒衣の騎士が、そう呻いて槍を払った。ずるりとニコルの体がそこから離れ、仰向けに落ちる。輝く光の勢いが増す。血で汚れた胸から、ほんの少しだけ浮かぶ。
ブルー・スター……。
誰もが息を呑み、それを見つめる。揺らめく青が、球体の表面で波立つ。その起伏の先端が透ける。鏡のように、ニコルの姿を映す。
きしりと強い音を立て、ブルー・スターに傷が刻まれた。たちまち濁る。まるで血を吸ったかのように色を変え、激しく波がうねる。怒りに震え、荒く乱れる球体が、その度に光を辺りに撒き散らす。そこに悲鳴が伴っていても、何の不思議も感じなかったであろう。死の淵で喘ぐ者のように、狂おしい光の息を吐くブルー・スター。だが、それはほんのしばらくのことであった。
光の揺れが、緩やかになる。波が少しずつ、凪いでいく。血の色が薄れ、代わりに海が蘇る。その色で、満たされる。
深い神秘の色を湛え、ブルー・スターがゆっくりとニコルの胸に落ちた。
ぴくりと。
黒と銀の耳が、動いた。わずかに開かれた口が、すうっと優しい音を立てる。頬に淡く紅色が差し、ゆっくりとその目が見開かれる。
これが……。
銀の髪がさらりと流れ、ニコルが上体を起こす。
ブルー・スターの……。
空間が、息を殺す。その中で、青く輝く球が、ニコルの胸から零れ落ちた。正面の騎士の足元を通り過ぎ、その隣りの騎士をもすり抜けて、一番後ろに構えていた騎士の前で止まる。止まって、誘う。
騎士の外套が、風をはらんだ。馬から下りる。黒い篭手で宝玉をつかむ。その手を、目の高さまで持ち上げる。魅入られたように、青き星を覗き込む。
「ぎゃあああ――!」
絶叫が、騎士の口から漏れた。異常なまでに、体を反らせる。そして今度は、反対に折り曲げる。全身を痙攣させながら、その場に倒れ込む。
「……うああ……ああ……」
苦悶の声が、泡となって口端から溢れる。目を剥き、絶えることのない痛みに身を捩らせる。皮膚を引き千切らんばかりに顔を歪め、そのまま深い皺となり固まる。見る間に枯れ、濁り、干からびていく。
「……あ……あ……」
短く詰まるような音が、騎士の喉の奥で鳴った。ごとりと、星を握り締めていた手が、折れる。肉が崩れ、白い骨を晒し、塵となって果てる。
だが、その時誰も、朽ちた騎士を見てはいなかった。目に映るのは、どこまでも美しく、安らかな光を湛える宝玉。心を覆うのは、ニコルの命を蘇らせたその力。
ころころと、まるで約束されたように転がり、主の元に戻るブルー・スターを、騎士達は血走った目で睨めつけた。
欲しい――。
ニコルの白い手が、星を掬う。
欲しい――。
胸元に、そっと星を忍ばせる。
だが――どうやって?
黒い鎧の騎士達が、一斉にニコルを見る。紡ぐ言葉は、ただ一つ。
「よこせ。それを」
熱に浮かされたかのように、同じ言葉を繰り返す。
「それを我に、よこせ」
騎士達の手が、狂気の命じるまま槍を翳す。
「それを、よこせ!」
「ニコル!」
突き立てられた槍が、再びニコルを抉る寸前に、キャンディの剣が閃いた。槍の先が跳ね上がる。その陰から別の切っ先が二本、迫る。
「おりゃあ!」
カノートが、その槍をまとめて払う。隙をつき、クロノスがニコルの体を引き寄せる。しかしその行為が、騎士達の狂気を加速させた。
「石を、よこせ」
濁った目が、光を失いにじり寄る。
「その小僧を、よこせ!」
歯軋りと共に、口の端から透明な液体が流れる。心を失い、己を失い、空のまま叫ぶ。
「よこせ! よこせ! よこせ!」
逃げ道はなかった。頭上から、一斉に降り注ぐ槍を防ぐ手立てはなかった。それでもキャンディとカイは、剣を構えた。その身を盾にして、振るう。
「やあ!」
「うりゃああ!」
刃の軌跡が、銀の弧を描く。よじれることもなく、途切れることもなく、完璧に描く。