荒れた土地が延々と続く。自然と心が荒ぶ。ここがかつては豊かで美しい所であったという事実が、なおのこと気持ちを滅入らせる。特に、この地を故郷に持つ者にとっては……。
「――カイさん?」
ニコルは傍らのカイを見上げて、小さく囁いた。
「あの……あの、大丈夫?」
カイは返事をしなかった。ただ、黙々と歩く。自分の足元の、ほんの少し先を見据えながら、進む。
まるで、その鋭い眼光で、大地を切り裂こうとでもしているかのようだ。
そう心の中で呟き、ニコルはそっとカイの側を離れた。先頭を行く、キャンディの元へと駆け寄る。
「あの、キャンディさん? カイが――」
「黙って歩け」
軽く息が弾むほど、足を速めながらキャンディは言った。
「この土地は危険だ。一刻も早く、出なければ」
翠緑色の外套が、ひらりと翻り、ニコルを置き去りにする。
「あの……」
ニコルはそう声を出しかけて、口を噤んだ。
この地が、ゲルラッテン・グランダという領主のものであること、そしてその領主が、この地をここまで荒廃させたことを、あらかじめニコルは、キャンディから説明を受けた。領民を狩る、その言葉だけで、身が震えるほどの恐怖をニコルも覚えた。でもキャンディの、そしてカイの、暗く沈んだ目は、それだけが原因のようには思えない。ルウもクロノスも、同じだ。みんな、あの喪失の森を出て以来、常に影を引きずるような、そんな表情をしている……。
ニコルはぎゅっと胸元を握り締めた。吹き荒ぶ風を感じる。その風が、心の中をも吹き抜ける。ひゅうっと、そこから悲鳴が聞こえてくるような気がして、ニコルは思わず首を竦めた。
風が泣く。一つ、二つ、三つ……。
荒野を歩く者の数だけ、哀しげに鳴る。苦しげに呻く。
その風が、不意に冷えた。
「カイ!」
低く鋭いキャンディの声に、カイは先だけ白い耳をぴくりと動かした。地に伏す。その耳をそばだてる。大地を激しく蹴る音が、振動となって鼓膜を打つ。
「来る……」
「みな、あそこへ」
そう言ったルウの口元が、続けて呪文が模る。ニコルはキャンディに引き寄せられ、クロノスはカイに抱えられ、小さな窪地に身を寄せた。その隙間に、ルウも体を滑り込ませる。
だが、一行の行為は、およそ隠れるに程遠い状態だった。そもそも、この地に身を隠せるようなものはない。木も草も、命を宿すものはほとんど残っていない。わずかにうねる大地の影に身を置いたところで、遠目ならまだしも、近付く者の視界から逃れることはできない。
ルウ……。
懸命に呪文を繰り返すルウの横顔を見つめながら、キャンディは唇を噛んだ。彼が行っているのは、結界の魔法だ。自分程度の魔力では為すことのできない、高位魔法の一つだ。
しかし……。
キャンディの空色の目に、荒れた野が映る。
魔法は、己の魔力のみで行なわれるわけではない。その地の、その空間の、気の力をも借りて為すのだ。大きな魔力が必要な高位魔法となれば、当然、それに見合った気の力も必須となる。
この、枯れた大地で、一体どれほどの気を集めることができるのか。動かすことが可能なのか。
キャンディの手が、剣の柄を握る。耳に聞こえる蹄の音。その音が大きくなるにつれ、手に力が込められる。
「……レ・トゥーファ」
音のない息だけの声が、ルウの唇から漏れる。金の髪が、はらりと流れる。なびき、そよぎ、それが溶ける。透き通るように色が薄れ、空の色に混じっていく。
キャンディは、自分の翠緑色の外套が、淡く揺れているのを見た。徐々に色が抜けていく。荒れた地の色に変わっていく。傍らのニコルも、目の前のカイもクロノスも、亡霊のように薄まり、影になり消えていく。
大したやつだ……。
心の中で舌を巻きながら、それでもキャンディは強く剣を握った。蹄の音が、すぐ側で乱れ鳴る。荒い馬の鼻息が、その音に重なる。少なくない数だ。十数頭はいる。何かを感じたのか、なかなか側を離れない。祈るというよりは呪うように、胸の内で言葉を繰り返す。
早く行け……早く。ここから去れ、去れ……。
高い馬の嘶きが、すぐ頭上で響いた。軽やかな蹄の音が、それに続く。徐々に遠ざかる。風の向こうに煙る。
「ふう……」
と、長い吐息がみなの口から零れ出たのは、同時であった。その音を合図に、互いの姿が空間に蘇る。どの顔にも、安堵の表情が浮かんでいる。そして誰よりも、カイがその気持ちを表に滲ませた。
静寂の中で、カイもキャンディと同じ呪文を唱えていた。早く行け、早く去れと、心の中で叫んでいた。だが、その動機は違っていた。もしも、後もう少し、奴らがこの場所に止まっていたなら。カイは我慢ができずに、立ち上がったかもしれない。荒れ狂う怒りと憎しみを押さえることができずに、飛び出していたかもしれない。自らの命はもちろんのこと、仲間全ての命を引き換えにして、ゲルラッテンに一太刀、浴びせたかもしれない。
そうならなくて、良かった――。
カイの口から、また大きな息が漏れる。肩の力が抜け、体の緊張がとけ、思わずその場に倒れてしまいそうになるのを、両腕で支える。
「カイ……?」
疑問と不審と心配と。三つを入り混ぜた声を発したキャンディに、カイは薄く笑った。
「大丈夫だ……じゃ、行くか」
「……ああ」
キャンディは、そう答えた。答えたつもりだった。だが、その言葉は、誰の耳にも届かなかった。自身ですら、言ったかどうか分からぬほど、激しい物音がその声を封じた。