……えっ?
振り抜いた剣の反動で、キャンディはよろめいた。カイもそのまま膝をつく。
「な……ん?」
目を見張る。そして目を凝らす。
どこにもいない。騎士達の姿が、どこにもない。
「どうやら……上手くいったみたいやなあ」
まったりとした声に、キャンディとカイが同時に振り向く。
「ルウ?」
「てめえの仕業か? これは」
「正直、こんな場所で成功するかどうか、自信はなかったんやが」
「まさか……」
キャンディが唸る。
「転移の魔法?」
「まあ、一か八かやったんやけどな」
「なんだ。そんな便利なものがあるなら、最初からそれを使えって――」
「なんて無謀なことを!」
カイを無視して、キャンディがルウに詰め寄った。
「こんな荒れた土地で、そんな大量の気を要する魔法をかけるとは。仮に完璧な環境下であっても、この人数だ。下手をすれば、時空の狭間に飛ばされ、未来永劫出られなくなるところだったんだぞ!」
「もしくは、転移そのものに失敗し、砂粒のように肉体が千切れる。あるいは物質の中に復元し即死する――なんてのも、考えられたなあ」
「て……てめえ……」
自分の顔から、はっきりと血の気が引くのを感じながら、カイが咆えた。
「そんな無茶な魔法を、勝手に――」
「でも、あのままやったら、みんな死んでた」
どこまでも穏やかな表情で、ルウが言った。
「ニコルを除いて」
柔和な声だった。だがその声が、針の鋭さでみなの胸を突いた。視線が泳ぐ。見てはならぬものを見るようにして、ニコルを伺う。
「……あっ」
小さく呟き、ニコルは一歩後退った。銀の髪が揺れ、ふっくらとした耳が二回、ぴくりと動く。蒼い瞳が一段凍り、金の瞳が今にも泣き出しそうに潤む。
「泣くな」
慌ててキャンディが言う。
「泣かれては、大事な話ができない」
いつ何時、ぽろりとそこから大粒の涙が零れてもおかしくない目で、ニコルはキャンディを見つめた。体がふるふると震えている。懸命に涙をこらえているのかと思うと、哀しいやら、愛しいやら、あげく妙なおかしさまで覚えて、キャンディは表情に迷った。
だが……。
口に出しかけた言葉を、そこで止めるわけにはいかなかった。聞かねばならない、確かめねばならない。そうしなければ、この先はない。
低い抑揚のない声で、キャンディが言う。
「あの喪失の森で、わたしは過去と対峙した」
空気がぴりりと軋む。誰の顔にも、緊張が走る。
「心地良い経験ではなかった。だからそれについて、みなに話すつもりはない。他の者がどうであったか、聞くつもりもない。しかし……」
キャンディの眉間に、厳しく皺が寄せられる。
「ニコル。以前お前は、記憶をなくしたと言ったな。それは今も同じなのか? ひょっとしたらあの森で、何かを思い出したのではないのか?」
ニコルの目が、わずかに伏せられる。長い睫が、瞳に影を落とす。
「全てを話せとは言わない。お前だけ、何もかも晒せというのは理不尽極まりないことだ。だが、その石の、ブルー・スターの力を目の当たりにした今、それを無視して動くことはできない。一体その石は、何なのだ? エトール山へ行って、お前はそれをどうする気だ? それで何をしようとしている? いや、聞きたいことはただ一つ。なぜ、お前がそれを持っている?」
泣く――。
と、キャンディは思った。しかし、ニコルの目から涙は零れなかった。ただ、恐ろしいほど澄み、見ている方が辛くなるほど憂いが満ちる。
長い、長い、沈黙だった。
風の音。遠くの森の、木々のざわめき。時折聞こえる高い音は、遥か高みで鳴く鳥の声か。
ニコルが一つ、瞬きをした。
「僕を」
小さな声で、確かな響きを紡ぐ。
「僕を、信じて」
それだけを言うと、ニコルは俯いた。
また、静寂が続く。しかし、それを破ったのは、その場の誰もが予想しなかった者であった。
「信じるよ」
そう、クロノスは言った。言って、自分で驚いた。勝手に言葉が口をついた。そんな感覚だった。
「……ありがとう」
上ずった声で、ニコルが答えた。瞳が激しく潤む。今度はこらえきれずに、それが溢れる。
多分……。
クロノスは思う。
信じるのではなく、信じたいのだ、俺は。ニコルではなく、自分自身を。今、ニコルを疑ってしまったら、自分の中には何も残らないような気がする。何もかもが、嘘になってしまいそうな気がする。言葉はなくても、目に見えなくても、確かなものがあるのだと思えたら。そこに、真実を見出すことができたなら。俺は、もう一度俺を、信じることができるかもしれない……。
「ほな、そろそろ行こか」
「……ルウ?」
嗚咽しながら切ない瞳を向けたニコルに、ルウは苦笑した。
「何やねん、そんな顔して」
「ルウも、僕を信じてくれるの?」
「信じるも何も。疑われるようなこと、あんたは一つもしとらんやろ」
さらっとした口調で、ルウは言った。柔らかく微笑む目はニコルに据えられていたが、言葉は彼以外にも向けられていた。
カイは、キャンディを見た。険しい表情は、まだ崩していない。心の中で、舌打ちをする。
一体、誰を疑ってるんだ? キャンディ――。
ルウの言葉が、ニコルではなく自分達に向けられたように、キャンディの疑問も、単純にニコルに向けられたのではないことを、カイは気付いていた。むしろ、彼のことを一番信用しているのは、キャンディだろう。だからこそ、心配なのだ。あの石を持つニコルが。信用できぬのだ。あの石の力を知る者達が。
一番疑われているのは、この俺かもしれないな。
カイは自嘲した。見つめる先で、キャンディの顔がゆっくりとこちらを向く。
「そうか」
カイを見据えたまま、キャンディはニコルに言った。
「みながそう言うなら、わたしもお前を信じよう、ニコル」
ニコルの顔に、日が射すような笑顔が弾ける。だが、キャンディもカイも、それを見ることはなかった。