何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第六章 エトール山  
               
 
 

「そうだな」
 口元に緩やかな弧を施し、キャンディは湖を見た。
「本当に、綺麗だ……」
 映す色を吸い込んで、キャンディの青い瞳が、さらに深みを増す。そこに、微塵の澱みもない。胸の奥底にまで納めた息で、体の隅々まで清めると、キャンディはクロノスを振り返った。
「すまない」
 柔らかな声が、続く。
「伝説のエトール山があるとすれば、確かにここ以外あり得ないだろう。美しく、清らかに心を癒し、満たしてくれるような場所は、ここより他にないだろう。感謝する、クロノス。よく、ここまで案内してくれた」
 クロノスの目が、微かに潤む。凍えたように動かなかった口が、言葉を紡ぐ。
「俺は――俺は――」
 クロノスは帽子を乱暴に取ると、勢い良く頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 伺うように、ゆっくりと頭を上げる。だが、待っていた顔は、クロノスの予想とは違っていた。キャンディは笑っていた。とても嬉しそうに、笑っていた。
「うむ」
 大きく頷いたキャンディに、思わず抱きつきそうになるのを押さえる。心の中だけで縋りつき、呟く。
「ありが……とう」
「さあて」
 ぐるりと首を一回転させて、カイが言った。
「じゃ、そろそろ帰るか」
「帰る?」
 軽く眉を引き上げたキャンディに向かって、カイが肩を竦める。
「これ以上、進むことができないなら、戻るしかないだろう。伝説のエトール山ってのは、結局なかったってことだろ?」
「それは……そうだが」
「ないものは、どうしようもねえ。ニコルだって、もう満足だろう。ちゃんとその目で、ないことを確認――」
 カイの表情が、そこで急変する。見る間に濡れたニコルの目に、うろたえる。
「おい、泣くなよ。しょうがねえだろう、エトール山は、この世界にはないんだって」
「そう決めつけるのは、まだ早いんとちゃうかな」
「あん?」
 訝る声を上げたカイを無視して、ルウはクロノスに話しかけた。
「なあ。あんたがこの場所を、伝説のエトール山やと思ったのはなんでや?」
「それは……『天空物語』の中の詩を」
「ああ、あれか。確か、こんな詩やったな」
 ルウは、小さく息を吸い込んだ。そして澄んだ声を出す。大きくはないが、豊かな響きで詩を紡ぐ。
「空の彼方に佇むは、金の乙女と銀の乙女。薄紫の花衣、手繰り寄せるは白き肌。すらりと伸びたその背の後ろ、輝く髪を二つ連ね、互いに微笑み手を取りて、エトールの頂き仰ぐべし」
 声が草原を、そして湖の上を軽やかに滑る。その調べに頷くかのように、風がさわさわと音を立て、山々を賛美する。それが一頻り鳴り終わるのを待ってから、ルウが言った。
「たったこれだけの詩から、どないして、この場所を?」
「それは……」
 クロノスは、こくりと小さく唾を飲み込んで、吶々とした声を出した。
「まず、空の彼方に佇む乙女というからには、山に間違いないと。そりゃあ、海とか、島とか、乙女に喩えるものは他にもあるけど。これを山と考えると、次の二節もすっきり来る。花衣というのは裾野に咲く花々を表し、白き肌というのは、その上部が雪に覆われていることを示している。連なる髪は、山の稜線を指すと考えられるからね」
「ふむ」
 ルウが頷く。
「けど、それだけやったら、ここやなくても、当てはまるところがいっぱいあるんとちゃうか?」
「そうだ。だけど、細かく見ていくと、やっぱりここになる。山に咲く薄紫色の花といえば、マランダの花のことだろう。マランダは、北部一帯にしか咲かない花だから、南の山はこれで消える。さらに、北の山の中で、常に頂きが雪に覆われているのは、ごく少数だ」
「ちょっと待て」
 じっと腕組みをして聞いていたカイが、口を挟む。
「常にかどうかは、分からないんじゃねえのか? 北の山なら、冬が来ればみな雪に覆われる」
「ああ、でも、マランダは夏の花だ」
「あっ、そうか」
 ぽんと手を叩いたカイを見て、クロノスは少し表情を崩した。
「後は消去法だ。すらりと伸ばした背の後ろに、それぞれ二つずつ小さな山を従えていること。その条件に合うのは、ここと、後、ベルツとハロッドムの山だけ。でも、ベルツとハロッドムは、互いに北西と南東の位置で向き合っている。だから、違う」
「ちょっと待て」
 再びカイが、首を捻る。
「なんで、いきなり向きがどうとかっていう展開に――」
「金と銀だよ」
 間髪入れず、クロノスが答える。
「金は太陽、銀は月。つまり、昼と夜の意味だ。日が昇るその方向が昼の世界。日が沈むその方向が夜の世界」
「なるほど」
 大きくルウが頷く。
「確かにこの乙女達は、真東と真西に位置しとる。それにしても、大した分析力やなあ。感心したわ」
「……でも」
 ルウの言葉に顔を少し赤らめながら、クロノスは俯いた。
「最後の一節が、どうしても分からなかった。これが解けなければ、いくら他が分かっても、意味がない」
「まあ確かに、言葉だけで最後の謎を解くのは難しいやろうな。実際に、この場所まで来て、空から見てみんことには」
「空?」
 クロノスだけではなく、カイもキャンディも、同時に声を合わせた。にっこりと、ルウが笑う。
「そや。まあここから見ても、分からんこともないが。もうちょっと高い所からの方が、はっきりする。ちょっとみんな、目、閉じてみい」
「目を閉じる?」
 ぱちりと一つ大きく瞬きをして、ニコルが尋ねた。ルウが頷く。
「そや。ちょっとの間、あの目を借りるさかい」
 そう言うとルウは、左手の杖を高く掲げた。その動きに合わせ、空を仰ぐ。青だけが占める上空に、白い点が二つ。鳥だ。優雅に、それでいて力強く舞っている。
「ほな、目、閉じてや。ローヌ・タマリット・ボンデアーム」
 ルウの声が、たおやかに響く。促されるまま、目を閉じる。
 空が青い。山が近い。湖水の輝きが、深い。
 俯瞰の景色に、軽く酔うような心地良さを覚えながら、旋回する。
「……あっ!」
 一同の口から、同時に歓声が上がる。

 
 
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