何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第六章 エトール山  
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 ロンツェの山に向かって飛ぶにつれ、湖に映る影が緩やかに端へと流れる。さざなみがその影を軽く押して、くっきりとした稜線がくすくすと揺れる。
「なるほど」
 目を瞑ったまま、キャンディが唸る。
「互いに微笑み手を取りて――とは、この景色を指していたのか」
 鳥の視線でさらに舞う。くるりと身を翻すと、今度はランフェの山影が、湖を美しく染めているのが見える。波に震える輪郭線を追うように、湖の真上を滑空する。天空を映す水鏡。しかし、その中心部分の色が、仰ぐ空より少し淡い。周りの湖水の色より、わずかに明るい。
 声を少し上ずらせて、カイが叫ぶ。
「おい、あの中央に、何かあるんじゃないか?」
「どうやら、あそこが目的地みたいやな」
 その声と共に、鳥の視界が閉ざされる。反射的に開けた目が、明るさを嫌い、瞬きを繰り返す。最後までぱちぱちと目を瞬かせていたニコルが、青と金の目をルウに向ける。
「あそこに……エトール山があるの?」
「か、どうかは、行ってみないと分からんけど」
「行くって、あんなとこに、どう――」
 カイは自ら、中途で言葉を切った。微笑を湛えるルウを見ながら、顎を撫でる。
「今度は一体、どんな魔法を使うんだ? まあ、それにしても、つくづく魔法ってのは便利だな。俺も一つか二つ、覚えようかな」
「お前には」
 キャンディの目が、冷たくカイを捉える。
「絶対無理だ」
「なんで決めつけるんだよ」
「バカに魔法は使えん」
「そうか――って、おい!」
「ウル・ピエント」
 ルウの声が、咆えるカイの横で滑らかに走る。湖の中央目掛け、流れていく。その声が駆け抜けた跡に、変化が起こる。そこだけ水面の色が変わり、さざ波が時を止め、凍りつく。煌き伸びる、一本の氷の道が、湖に標される。
「ちょっと滑りやすいから、みんな気ぃつけてな。あんまり端っこ歩いたらあかんで」
 くるりと振り向きそう言うと、ルウは先に立って歩いた。お約束のように、慌ててニコルがその後を追って転ぶ。クロノスが抱き起こし、今度はよたよたと、互いに手をつないだまま進む。キャンディが続き、そしてカイも、氷の道に片足を置く。
 後ろを振り返る。
 なだらかな草原。咲き乱れる花々。穏やかな風景。
「カイ。どうした?」
「……いや」
 低い声でそう答えると、カイはキャンディの方に向き直った。
「なんでもない。行こうぜ」
 カイは大股で、キャンディの脇をすり抜けた。
 カイ……?
 キャンディの眉が、軽く寄せられる。厳しい視線で、その背を刺す。堂々たる大剣を見据えながら、後に続く。
「わあ!」
 ニコル達の歓声を耳にして、キャンディは視線を奥へと伸ばした。
「あれを――あれを見て」
「どれどれ」
 カイはそう言うと、氷の道に膝をついた。湖の底を覗き込む、ニコルとクロノスの頭を軽く押さえながら、身を乗り出す。
「なるほどね……確かに山だ」
 湖は、その外見を裏切ることなく、内面も美しかった。澄んだ青が、延々と続いている。あまりにも深い底は、その青に吸い込まれ、さすがに見ることはできなかった。が、すぐ下にある影は、まるで鏡の中にある景色のように、くっきりと形を示していた。
 白い、大きな岩山。ごつごつとした山肌が、果てしなく水底まで続いている。地上にあるなら、登るのにかなりの難儀を強いる傾斜だ。無論、難儀という点では、水中にあるということの方が、遥かに厄介であったが。
「う〜む」
 一つ唸って、カイがその思いを口にする。
「で、ここからどうするんだ?」
「頂上を見る限り、特に変わったところはないな」
 キャンディが呟く。
「となると」
「潜って下の方を確かめるしか、しゃあないやろ」
「潜る……のか?」
 ルウの言葉に、カイは乗り出していた身を少し戻して、湖に沈む山を見やった。その深さに、その高さに、軽い眩暈を覚える。無意識のうちに、耳がぴくぴく動く。と、その耳に、やけにのどかな音が響いた。
 ぽちゃん……。
 白い岩山の頂上が、波紋で揺れる。さざ波の向こうで、青い玉が柔らかな光彩を放つ。
「あっ」
 ニコルの声が、そこで鳴った。その声に押されるように、岩山の頂上でころりと一揺れしたブルー・スターが、そのまま弾むように山肌を転がり落ちていった。
「落とし……ちゃった」
 星を抱いた青い玉が、すっかりと湖の青に呑み込まれたのを見届けて、ニコルがぽつりと呟いた。
 誰も、動かなかった。驚きだけが、彼らを縛ったわけではない。それが証拠に、ニコルの言葉が終った後もなお、しばらく一行はその場に固まっていた。
「……つまり」
 ようやくルウが口を開く。
「ここにおるもん、みんな泳げへんちゅうことか」
 キャンディの白いしっぽが、小さく振れる。冷えた目で、カイを見やる。
「なんだ、カイ。貴様、泳げないのか」
「お前だって」
 カイも負けてはいない。
「カナヅチなんだろうが」
 キャンディの口元が、軽く尖る。
「とっ、とにかく、この状況を何とかしなければ。ルウ、何か魔法で――」
 しかし、振り返ったキャンディを、誰も見てはいなかった。みな一様に驚愕の表情を浮かべ、彼女を通り越し、その先を見つめている。
「……ん?」
 キャンディは、また前を向いた。
 その目に、空でもない、湖でもない、ましてやブルー・スターでもない、別の青が飛び込んでくる。細く、青い光の筋が、水面の上に立っている。一本ではない。十本、いや、もう少し。それらがぐるりと円形に、水底にある山の頂きを、囲むように揺らめいている。
「これは……一体――」
 キャンディの言葉が、また途切れる。がくがくと、膝が震える。地面そのものが、揺れている。正確には、氷の道が……。
「お、おい、あれを……」
 カイの声に促され、キャンディは青く光る水面を見つめた。
 ごぼごぼと泡が立っている。立ちながら、沈んでいる。光の筋に囲まれた部分の水位が下がり、白い岩山のてっぺんが顔を出す。と同時に、青い筋に囲まれた円が、押し広げられるように膨らんだ。
「――とっ」
 氷の道の端が、その円に巻き込まれた。傾き、砕け、光の粒となって散る。それが合図かのように、円の中心が一気に抜け落ちる。水壁となって、山の上部を囲む。
 ぐらりと大きく、氷の道が揺れた。
「戻れ!」
 叫ぶと同時に、カイはニコルを担ぎ上げた。
「ぐずぐずするな! みんな呑み込まれるぞ!」
 全員が、身を翻す。大きく傾いた氷の道を、駆け上る。滑りながらも、懸命によじ登る。
 だが……。
「うわっ」
 どんと強い衝撃を受けて、道が真っ二つに割れた。端から沈む。その上を、ずるずるとみなが転がる。
 ルウの杖が輝いた。
「ウル・ピエ――」
「くっ」
「おわ!」
 青い光の筋が、さらなる広がりを見せる。うねりながら周りの水を押しのけ、返す波を逆に吸い込み、滝となる。湖の底めがけて、飛沫を吹き上げながら落ちる。
 折れた小枝のような氷の道が、為す術もなくそこに呑まれた。絶叫が、穏やかな風を震わす。深く、遠く、長く尾を引きながら、その声は水底へと消えていった。

 

 
 
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