何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  エピローグ  
              第七章・7へ  
 
 

 

 耳元をくすぐる白い小花に促され、クロノスは目を開けた。視界の隅々まで、空が広がっている。
 ゆっくりと体を起こし、辺りを見る。一瞬、夢を見ていたのではないかと、首を傾げる。目の前にはロンツエとランフェの美しい姿。満々と水を湛える湖。色とりどりの花が鏤められた草原。そこに蹲る、影。
「――ルウ!」
 弾けるように時間が戻る。飛び起き、側へと駆け寄る。
 ルウは、うつ伏せに倒れていた。顔は見えない。その小さな体を抱き起こしたかったが、クロノスは怖くてできなかった。いや、臆病だったのは、彼だけではない。キャンディもカイも、走り寄るのが精一杯で、そこから先に進めない。
 重苦しい空間の中で、キャンディが呻く。
「……ルウ」
「ルウ!」
 背後で渦巻く風が、そう叫んだ。低くしゃがれた、聞き覚えのない声。振り向くキャンディの目に、その瞳より濃い青が映り込む。ルウと同じ、聖都の魔法師を示す衣。ルウよりも大きく、そして三つある。
 三賢者……。
 誰に説明されるまでもなく、一同はそう思った。
「ルーデオラント・マルレアン」
 最も年老いた、白い髭を足元まで伸ばした賢者が、風のように草の上を滑り、ルウの傍らに立った。
「なんちゅう、愚かなことを」
 屈み込み、その体に触れる。
「賢者でもないのに、転命の法を勝手に持ち出しおって。しかもそれを、使いおって」
「違う!」
 咎めるような言葉に、クロノスが叫ぶ。
「ルウは、そんな……。確かに、勝手なことをしたのかもしれないけど。でも、ルウは、俺達を助けようとして、そして」
「どない思う?」
 しかしその賢者は、クロノスの言葉を無視して、他の賢者を振り返った。
「癒しの魔法は使えんな。もう無理や」
「ここまで深い傷やと、難しいでしょうなあ」
「やっぱりあんたらも、そう思うか」
「じゃあ、戻してくれよ!」
 どこかのんびりと、情の欠片もないような物言いに、クロノスの声が怒りに震えた。
「もともとこの傷は、俺の傷だ。だから俺に、俺の体に傷を戻してくれ! あんた達ならできるだろう? 聖都の魔法師なら、賢者なら、そのくらい簡単なことだろう? あんたがルウのお師匠さんなら、ルウのことを少しでも思うなら、俺に――」
「ええ加減、黙っとれ!」
 初めて、白い髭の賢者がクロノスを見る。
「可愛い弟子をこんなにされて、わしが何も感じてへんとでも思うんか?」
 険しい光を奥まった目に湛え、賢者がカイ達の方を向く。
「絶対、許さへん。きっちり、この落とし前はつけたるで」
「……お、おい」
 ぎろりと睨まれたカイが、キャンディに囁く。
「なんか、微妙に勘違いされてないか?」
「う、うむ」
「そやけど、今は」
 賢者の顔が、再びルウの方に向けられる。
「ルウを助けるのが先や。ほな、みないくで」
 左手に持った杖が、高く掲げられる。溢れる光が賢者の輪郭を華やかに縁取る。
「……………………・バム・ダナダデ・ピヨンヌ・レッコマラド・シランダ!」
 始めはもごもごと口の中で、最後は年齢よりも遥かに若い張りのある声で、呪文が紡がれる。
 杖の光が、帯のように伸びた。螺旋を描きながら空へ昇り、大きく空中でうねり、ルウの体に降り落ちる。優しく、抱き起こすように、光帯がルウを包む。その拍子に、鉛色の生気のない顔が、露となる。思わず息を詰めたキャンディ達の前で、光はルウの頬をそっと撫でた。
 淡い光が、肌に染み込む。その分だけ、色が戻る。少しずつ、少しずつ、小さな体に命が戻っていく。
「……うっ……むう」
 白い髭の賢者が、そう小さく息を漏らした。ルウとは対照的に、賢者の顔は蒼ざめている。それは他の賢者も同じで、みな一様に、苦痛の色を浮かべていた。手に持つ杖に体を預け、荒く息をする。青い衣の、ちょうど腹の辺りに、鈍い色が染み出してくる。
「う……うん……」
 ルウの唇が、音を漏らす。長い睫が小刻みに揺れ、それがゆっくりと開く。ぼんやりと、空を見ていた蜂蜜色の目が、するりと横に流れ、一点を見つめる。
「……お師匠……様?」
 白い髭の賢者の目尻に、優しい皺ができる。だが、すぐにそれが、苦痛で歪められる。
「お師匠様! お師匠様!」
「大丈夫や」
 叫び、縋りつく愛弟子に、髭の賢者は静かに言った。
「ええか、ルウ。転命の法は、一つの傷を複数の体に分散させるための魔法や。こうやってみなが協力すれば、癒しの魔法では手に負えん傷も、治すことができるさかいな……ラウール・トゥ・マルモ」
 癒しの魔法がかけられる。賢者達の顔に、みるみる血の気が戻る。
「お師匠様……」
「分かったか、ルウ」
 穏やかな声が、また続く。

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ  
  エピローグ・1