「一体……何がどうしたって言うんだ」
そう、掠れた声で呟くカイの周りに、堆く崩れた岩が転がっていた。まるで、彼のいる場所だけを避けたように、そこだけ空間を残して洞窟は崩れた。
いや、違う、避けたのは彼だけではない。クロノスやルウ、それにあの騎士達の姿も、岩に潰されることなく地に横たわっている。
「下ろせ」
カイの腕の中で、小さくキャンディはそう言った。少し躊躇い、カイが跪く。そっと、羽毛が触れるかのように、キャンディの両足が地につけられる。
痛みが走る。
軽く顔をしかめ、キャンディは立ち上がった。
青い揺らめきは、消えていた。洞窟内を埋め尽くしていたブルー・スターの残光は、今、一筋の光となって、天を指している。ぽっかりと穴の開いた天井から覗く、真っ青な空を目指して伸びている。そして、さらに。
「信じ……られん」
「ああ、信じられねえな」
キャンディの呟きに、カイが答える。
光はそれだけではなかった。暖かな陽光を思わせる穏やかな光源が、すぐ側にあった。淡い光の中に佇む、ニコル。その姿を仰ぐ。キャンディより、そしてカイよりも高い位置にある、優しい眼差しを見る。
金と青の美しい瞳、さらりとなびく銀の髪。そこに変化はない。だが、その上にあるべき、黒と銀の縞模様を刻む耳がない。揺れる尻尾も、跡形もない。すらりと伸びた体は、カイの倍以上の高さがある。その姿は、まるで――。
「人間……」
クロノスが呟く。
「ニコルは……本当に……人間だったんだ」
ニコルの小首が、わずかに傾げられる。銀糸の髪の隙間から、肌と同じ色の耳が見える。猫族とは、付いている場所も形も違う。間違いなく、お伽話に出てくる人の耳。
その事実が驚愕でもなく、恐れでもなく、縋る想いをクロノスの胸にたぎらせる。
「ニコル……ニコル! ルウを、ルウを助けて!」
途端、ニコルの顔が哀しげに歪む。蒼ざめた顔で、糸のような息を残すルウを見つめる。金と青の瞳が潤む。
「ごめんね、クロノス。僕にはどうすることもできない」
「でも……でも、人間なんだろ? 人間なら、俺達にない力を、とてつもない力を持って――」
「関わることができないんだ」
苦しそうにニコルは眉を寄せ、目を伏せた。
「遥か昔、そう決めた。そしてこれから先も、そうすることにした。僕は、僕達は、君達とは関わらないと」
「おい、何言ってんだよ、ニコル」
カイの声が、荒く響く。
「ここまで来て、関係ねえって、そんな言いぐさはねえだろう。お前のために、みんな」
「……カイ……」
「俺はいいさ、俺は。だけど、キャンディや、クロノスや、それにルウのことを、関係ねえなんて、そんなことは絶対に――」
「違うんだ」
「違う?」
悲痛な声を上げたニコルに、カイはなおも食い下がった。
「何が、違う?」
「僕達は、君達が思っているような存在じゃないんだ。全知全能なんかじゃない。崇高なるものでもない。確かに、力はあるよ。君達とは違う、君達とは別の力が。でも、心はそれに比べて、まだまだ足りないんだ。深さも、広さも、全然足りない。受け入れ、認め、信じることのできる容量が、限られているんだ。狭く、貧しく、その底に悪意を宿しているんだ。だからこうやって、他者を試す。僕を、僕のような亜種を使って、約束の日までに戻ってこれるかどうかを試した。もし、それが叶わなければ、たとえ不慮の事故でも、ごく一部の者のせいで僕が傷付けられたのだとしても、その時は……」
ニコルの表情が暗く沈む。唇が、二度小さく開いたが、声を模ることはなかった。
何かを振り払うように、強く首を振る。濡れた瞳が、キャンディ達を見据える。
「でも、僕はここに戻ってくることができた。ブルー・スターを、この場所に据えることができた。だから僕達はいったんここを離れ、距離を置くことにした。前と同じように、待つことにした。いつか君達が、星星を渡り歩く力を持つその日まで。ただ見守ることを決めた。それが、僕達にできる、最大限の関わりなんだ」
「そんな……」
カイが呻く。
「そんな、わけの分からんことを言われても」
「ごめんね」
ニコルの目から、一滴の涙が零れる。
「本当に、ごめんね」
それで、誰もが沈黙する。姿は変わっても、人の形となっても。その人という存在が、自分達の考えるようなものではなく、悪しきものだと聞かされても……。
ニコルは、ニコルだ。その魂を疑えない。理由は分からなくとも、この星で、身も心も傷付き続けた彼の過去を、否定できない。
「ごめんね」
ニコルの懺悔が続く。
「何もできなくて。みんな、命をかけて、僕を守ってくれたのに。僕を、ここに連れてきてくれたのに」
「……ニコル」
やっとの思いで出したキャンディの声に、ニコルはまた瞳を濡らした。
「ごめんなさい」
「もう……いい」
そう言ったキャンディの声は穏やかだった。はっと見開かれたニコルの目から、はらはらと涙が落ちる。
「……キャン……ディ」
「よく分からんが、それはわたし達のためでもあったのだろう? 記憶すら失うほど傷付けられ、それでもここを目指したのは、そういうことなのだろう?」
キャンディの小振りな口元が、緩やかに弧を描く。
「だから……もういい。早く、仲間のところに帰れ」
ニコルの瞳が、澄んだ煌きに揺れる。金の瞳は太陽のように、青の瞳はブルー・スターのように、どこまでも暖かで、純な光を撒き散らした。
「ありがとう」
ニコルの唇が、柔らかく動く。溢れる涙を手で拭い、もう一度言う。
「ありがとう」
天を貫く一筋の光が、震えるように波立った。下から上へ、流れが生じる。
ニコルは、その光に右手を寄せた。吸い込まれ、吸い寄せられ、光がニコルの体を包む。ふわりとその身を、宙に浮かせる。
「ニコル!」
思わずみなが、そう声を上げる。
「ニコル……」
「ありがとう、ルウ。ありがとう、クロノス。ありがとう、カイ。そして」
光がしなやかな曲線を描く。まるで鳥の翼のように、ニコルの背で羽ばたく。
「ありがとう、キャンディ」
「わたしは……」
キャンディの空色の目が、しっとりと色を濃くする。
「わたしの名前は、キャメロンだ」
光の中で、ニコルが笑った。その笑顔が滲む。陽だまりの温もりだけを残して、ニコルは消えた。滲む視界の中で、遠のく意識の中で、キャンディ達はそれを感じた。