エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2) | ||||||||||
第一章 黒衣の未亡人 | ||||||||||
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ロイは、エレノアの美しい顔を見つめた。神秘的な光を有する瞳。強さよりは弱さを、激しさよりは儚さを、より多くその中に湛えている。どこか現実ではない、遠く夢見るようなそんな瞳。
彼女には、分かっているのかもしれない。何かに、気付いているのかもしれない。ただ、それを認めたくない、あるいは信じたくない。そんな心の揺れが、この深い紫色の瞳の奥にあるような気がする。そんな気が……。
「それでは、こちらを」
エレノアがペンを置くより早く、しゃがれた声が響いた。使用人の名前が連ねられた紙の上に、別の紙が乗せられる。
「こちらが、当事務所の料金表です。ご依頼が身辺の護衛ということですので、一日、一人あたりの基本料金はこれになります」
デュバル所長の持つペン先が、紙に連ねられた数字のうちの、一塊をぐるりと囲んだ。
「ですので費用は、こちらの金額に日数分、及び人数、二人分をかけて頂き――」
「二人……ですか?」
「はい。ここにいる両名に担当させるつもりですが。何か問題でも?」
「いえ。でも、二人もなんて、なんだか厳重過ぎますわ」
「いや、護衛と言っても、別に物々しい格好でおおっぴらにガードするわけではありません。それでは犯人が警戒し、何も仕掛けてこないでしょう。こう言うと、まるであなたを囮にして、犯人探しをするように思われるかもしれませんが。ただ、何がしかの証拠はつかまなければならない。犯人を突き止めないことには、あなたは一生、厳重なガードなしに生きることができなくなる」
「それは、分かっています。私も、あんなひどい悪戯をした人を突き止めたい。でも、やはり一人で十分です。お一方で、お願いできないでしょうか?」
「はあ」
デュバル所長は困惑した表情で、エレノアを見つめた。
「ご要望とあれば、そうさせて頂きますが。ただ、うちでは基本的に、複数でご依頼を受けることにしています。一人より二人の方が、何倍もの力であなたをお守りすることができるのです。はっきり申し上げて、これは他愛のない悪戯や、ちょっとした嫌がらせなどではありません。もう少し具体的な証拠となるものがあるなら、私どもではなく、警察をお勧めするところです。なので、ぜひ、この二人にあたらせて下さい。万が一のことがあってからでは遅い。もし、金額的に問題があるようでしたら、ある程度までならご相談に――」
「いえ、それは別に構わないのですが。ただ……」
エレノアはそう言うと、また下を向いた。しばらく次の言葉を探すように、瞬きを繰り返す。ふと、それが途切れる。
「ただ?」
モイラが絶妙なタイミングで促した。エレノアの唇が、それに従う。
「ただ、屋敷の中に、いきなり二人も新しい人を入れるのは。今までに、そういうことはありませんでしたから。不自然に、思われてしまうかもしれません」
「思われる――とは、どなたに?」
「そういうことは、執事が取り仕切っておりますので。私の一存では……」
なるほど。
と、ロイは心の中で呟いた。館の主が亡くなった後、この女主人をそのまま主と認めぬ空気が、少なからずあるのかもしれない。ひょっとしたら、思った以上に危ない状態の可能性がある。やはりここは、モイラとチームを組んで――。
「分かりました」
デュバル所長が頷いた。思わずロイが、その声の方を見る。ほぼ同時に振り向いた、モイラと目が合う。
「そういうことでしたら、仕方ありませんな。疑われては、元も子もない」
言葉の終わりに合わせて、デュバル所長がちらりと左右を見た。言っていることは、正しい。抗議のため開きかけた口を、モイラとロイは同時に閉じた。所長の声が続く。
「では、ご依頼通り、一人、お屋敷に向かわせましょう。護衛のためには、できるだけ、あなたの身近にいられることが必要ですね。となると、やはりモ――」
「そちらの方に、お願いしたく思います」
「えっ?」
不意に、菫色の瞳を真っ直ぐに向けられて、ロイの心は波立った。美しいその輝きに魅入る。吸い込まれそうな感覚が、ロイの全身を包む。とっさにロイは、顔を背けた。心の揺れが、少し静まる。
「運転手の代わりを、雇わなければならないのです」
エレノアの細い声が、不思議なほど染み通って響く。
「ですので、私の友人の紹介という形で、そちらの方にいらして頂きたいのです。最終的には、執事と相談して、採用するかどうかを決めることになりますが。多分、きっと……大丈夫ですわ」
ロイは視界の端で、夫人の目が再び自分に据えられているのを知った。心がまた、揺らぐ。あの目を、どうしても見返すことができない。
一体、どうしたっていうんだ? 僕は――。
「……ふぅ」
小さな溜息が、耳に聞こえた。目だけで、その方向を見る。片眉を引き上げ、モイラが意味ありげに微笑んでいる。どうやら、妙な勘違いをしているようだ。だが、それなら何なのだ、と問われても、おそらく自分は何も答えられないだろう。はっきりとした感情はない。ただ、心が乱れるのだ。激しく、焦燥感を覚えるほどに……。
モイラの二度目の溜息が、鼓膜を軽く震わす。その横で、デュバル所長が大きく動いた。
「では、ファーガソンさん。今夕にでも、ロイをお屋敷に伺わせます。ところで、この後のご予定は?」
「いえ」
所長に合わせて立ち上がりながら、エレノアは言った。
「このまま屋敷に戻る予定ですが」
「それはまずいですな。わずかな間とは言え、お屋敷にお一人という状態は」
デュバル所長は右手を顎の下に添えて唸ると、モイラを振り返った。
「モイラ、今からファーガソンさんと、ピルッツアー通り辺りで時間を潰してくれ。夕方までには準備を整え、ロイを屋敷に向かわせるから」
「分かりました。できるだけゆっくりと、ウィンドウショッピングを楽しむことにしますわ。何かと――準備が大変そうですから」
言葉の終わりを強調するように、間を取りながらモイラは答えた。エレノアと連れ立って部屋を出る。扉を閉める寸前で、ロイに向かって片目をつぶる。
思わず大きな溜息を零し、ロイは日の光と同じ色の髪を掻きあげた。デュバル所長が声を張る。
「ロイ、気を引き締めて行けよ。楽な仕事じゃないぞ、今回のは」
どうやら、こちらも勘違いしているらしい。
あらぬ誤解を避けるため、胸の内だけでもう一度溜息をつくと、ロイは早速準備に取りかかった。