エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第二章 ファーガソン邸  
               
 
 

 

「奥様が、そこまでおっしゃるのでしたら」
 動きも感情も、極限にまで押さえたレイモンドの口元が、とうとうそう言葉を発した。
 ロイがこの館に入ってほどなく、打ち合わせ通り、エレノアが帰ってきた。それで、風向きが変わった。もう少しタイミングが遅ければ、ロイは体良く追い返されていたかもしれなかった。
 サッカス夫人というこの館の住人にも馴染みの深い、女主人の友の名を借りたお蔭で、門前払いは免れた。しかし、履歴が良くなかった。
 名前はダン・ヴァルフ。この星では大手にあたる、タンブラン・ドライバー連盟所属。過去一度、屋敷務めをした経験ありという設定で臨んだのだが。一番細工に苦労した、協会メンバーであるか否かは目もくれず、レイモンドは以前勤めていたという家に固執した。もちろん、それは調べ上げられてもいいように、データ上は無論のこと、実際に人を雇い、家を借り、一時的に実体化して備えていた。ロイの、いや、ダン・ヴァルフの仕事ぶりを、問い質しに来られた場合を想定して。
 ところが、レイモンドが気にしたのは、家そのものであった。名の通った家柄であるかどうか、それにこだわったのだ。全く架空の勤め先をでっち上げていたロイは、レイモンドの、
「失礼ながら、そのお名前は存じ上げませんな」
 の、一言で沈黙した。途切れた会話。その間が限界に達する直前に、夫人が戻ってきたのだ。
 とはいえ、その時点でロイは、夫人にさほどの期待はしていなかった。彼女の物言い、良く言えば奥ゆかしく、悪く言えば、はっきりとしないあの口調では、レイモンドを説き伏せることなどできないと思ったからだ。しかし、意外にも、夫人は引かなかった。運転手がいないままでは不自由でかなわないこと、無下に断っては紹介してくれたサッカス夫人に申し訳がたたないこと。何より、こうして実際に会った印象が、なかなか好ましいことなどを、吶々とした調子ではあったが主張し続けた。
 途中で場所を変えたのも、功を奏したかもしれない。玄関ホールの長椅子に腰をかけていた時より、応接間にある薄紅色の花模様に覆われた、主の椅子に座った時の方が、夫人の声に力があった。
 そうして、半時ほどを費やして、ようやくレイモンドの口から先ほどの言葉を引き出したのである。
「それでは」
 夫人が立ち上がるのに合わせて、ロイも腰を上げる。
「よろしくお願い致しますね、ダン」
「はい、奥様」
 微笑を浮かべるエレノアの瞳が、しっとりと濡れたように輝く。甘い花の香りが、そこから匂い立つような錯覚を覚える。視界が一点に絞られるような、世界がそこに吸い込まれるかのような、そんな思いがロイを縛る。
 夫人がロイから視線を外す。呪縛が、解ける。
「レイモンド」
 柔らかな声で、夫人が言った。
「それでは、後を頼みます。私は少し疲れたので、夕食の時間まで、部屋で休んでいますから」
「かしこまりました」
 奥歯で軽く、空気を噛むようにして執事は答えた。無理のない、無駄のない動きで、主のテーブルの上にある呼び鈴を鳴らす。
 緩やかに時が流れた後、女性の声が響き、扉が開いた。
「お呼びでしょうか」
 丸っこい鼻の頭に点々と連なるそばかすが、愛嬌のある顔によく似合っている。
 リンダ・ハンプトン。二十一歳。地元、ホーネル星、ロンドリア区出身。アローナ・メイド協会から一年前に派遣され、今に至る。
 そうロイが、頭の中で反芻している間に、リンダは夫人から帽子と手袋を預かり、共にその部屋から出ていった。
「さて」
 レイモンドがロイの方を向く。
「早速、今日から働いてもらうことになるが、荷物はそれだけかね?」
「はい」
 左手に下げた、小さなボストンバッグを軽く持ち上げて、ロイは答えた。
「では、先に車の方を見てもらおうか。部屋には、後で案内しよう。私に付いて――」
「――きゃああぁ!」
 鼓膜を貫くような悲鳴。そして、どすんと大きな物音。
 何かが倒れた? いや、落ちた?
 そう頭で考えるより早く、ロイはその部屋を飛び出した。
「……ああ……あ……」
 螺旋階段の上で、リンダが蹲り震えている。下の床には、散乱する木片。この、両者の間に、夫人はいた。立つでも座るでもなく、ごっそりと手すりが抜け落ちた階段の縁に、ぶら下がっている。
「……お、おくさま……おく……」
 動転したリンダには、執事の叫ぶ声が聞こえていない。
「リンダ! 奥様のお手を、しっかりと握るんだ!」
 それでもレイモンドは、階段を上りながら叫び続けた。泣きながら、リンダが夫人の手を取ろうと這う。だが、達する前に、夫人の白く細い指が力尽きる。
「――ひぇっ――」
 リンダの喉の奥で、呼吸が高く小さく鳴る。ふわりと夫人のスカートが膨らみ、一瞬だけ空に浮くかのように広がる。
「奥様――!」
 レイモンドの絶叫に合わせ、夫人は落下した。
「奥様?」
 階段の真下、その奥の扉から男が飛び出る。
 ダニエル・トンプソン、二十五歳。ホーネル星出身、使用人。
 同じ扉から、もう一人。
 カーク・シュタイナー、三十二歳。カロット星出身、料理人。
「お……おくさま……」
 二階の踊り場から、顔を引き攣らせ階下を覗き込んでいる女。
 レジェッタ・ローズ、三十六歳。ホーネル星出身、メイド。
「なんか、あったんですかい?」
 そう言って、玄関ホール横の窓から、ひょいと顔を覗かせた男。
 マシュウ・トーマス、四十一歳、セントベルバーン星出身、庭師。
 これで、全部か……。
 ロイは、心の内でそう呟くと、ようやく腕の中にあるものに視線を落とした。白磁の肌に影を滲ます睫が、ゆっくりと揺れ、開かれる。その中心に、ロイの顔を映した深い紫色の瞳が、濡れた煌きを発する。
「わたし……」
「大丈夫ですか? 奥様」
 その時ロイは、不思議なものを見た。エレノアの頬から血の気が引き、潤んだ瞳から輝きが消える。ふっくらとした唇が寂しげに歪み、暗い影が顔全体を覆う。
 えっ……?
 ロイは一つ、瞬きをした。しかし、再びその目で捉えた夫人は、優しげな微笑を湛えていた。

 
 
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  第二章・2