エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第二章 ファーガソン邸  
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「ありがとう、ダン」
 夫人は、その美しい顔に喜びの笑顔を施した。
 気のせいか……。
 そう、ロイは思った。だが、心の全てで思うことはできなかった。ほんの一瞬の情景が、目に焼き付いて離れない。今を盛りと咲き誇る花のような夫人の顔が、まるで蝋人形のように冷たく見えたあの瞬間が、蘇る。
 言い様のない不安が募る。胸の中が、また荒く波立つ。
「奥様、お怪我は?」
 駆け寄りざまの執事の声で、ロイはようやく我に返った。体を起こそうとする夫人を支え、床にそっと下ろす。
「大丈夫、何ともありません。それより、ダンの方が心配だわ。あの高さから落ちた私を、受けとめたのですから」
 そう言うと、夫人は春風のような微笑をロイに向けた。脳裏にこびり付いていた情景が、揺らめき翳む。ロイの口元にも、笑みが浮かぶ。
「僕は大丈夫です。まだ少し、腕が痺れていますけど」
「おくさま……おくさま……」
 泣きじゃくりながら、リンダが階段を駆け降りた。夫人の側まで行き、さらに嗚咽する。
「まあ、リンダ。そんなに泣かないでちょうだい。何ともなかったのですから」
「とにかく、ご無事で何よりでした。ダン、君も」
 レイモンドは、ほとんと感情を表すことなくそう言うと、視線を転じた。奥まった階下の扉から、飛び出してきた若い男。そこに向かって、おもむろに声を放つ。
「ダニエル」
「は、はい」
 呼ばれた若者は、落ちつきなく上着の裾を弄った。おどおどとした目で、執事を見る。
「先週、手すりの古くなった部分を直すよう、言いつけたはずだが」
「はい、そうです。でも――」
「なぜ、言いつけを守らない」
 声を荒げて怒鳴ったわけではない。表情も、先刻から寸分変わらない。にも関わらず、ダニエルは、底冷えのする冬の夜、道端に放り出されでもしたかのように震え、縮こまった。項垂れ、床に向かって言葉を繋ぐ。
「でも、ちゃんと調べはしたんです。それで、ちょっとやそっとのことでは、まだ壊れたりはしないと。なので、寝室の壁紙や、台所のタイルの張り替えの方を先に済まそうと。手すりの修理は来月、いえ、来週にはやろうと」
「その結果、お前は奥様を危険な目に遭わせた。まかり間違えば、命を落とすような」
「…………」
「ダニエル」
 判決文を読み上げるような、気持ちの見えぬ声でレイモンドは続けた。
「今日中に、荷物をまとめて屋敷を下がるように」
「そ――そんな」
「待ってちょうだい」
 エレノアが、悲痛な声を出す。
「レイモンド、考え直してくれないかしら。私はこうして無事だったのですし」
「いいえ、奥様。結果がどうあったかではなく、やらなければならない仕事を為さなかった。そのことが、問題なのです」
「でも、後でちゃんとやるつもりだったと――」
「しかし、奥様」
「それに、困るわ。彼まで、いなくなってしまうのは……」
 夫人の目が伏せられる。ただでさえ透明な肌が、本当に透き通ってしまうのではないかと思うくらい、淡く輝く。陽炎が揺らめくような哀しげな表情に、さしものレイモンドも折れざるを得なくなる。
「確かに、また新たに使用人を入れるのは、少々面倒を伴うでしょう。すぐに見つかるかどうかも、分かりませんし」
 そう、自分に言い聞かせると、執事はまだ俯いている男の方を向いた。
「ダニエル」
 男の顔が上がる。
「聞いての通りだ。奥様の御慈悲を、よく心に留めておくのだぞ」
「は、はい。ありがとうございます、奥様。ありがとうございます」
「では、すぐに仕事に取り掛かってもらおう」
「は、はい」
「あっ、僕も手伝います」
 そう言うとロイは、ダニエルより早く、床に散らばった手すりの残骸の方へ歩み寄った。
「いや、これはダニエルの仕事だ。君には君の役目があるだろう」
「分かってます」
 ロイは、持ち前の人好きのする笑顔を執事に向けた。
「じゃあ、ここを片付けるだけ」
 言葉と同時に、右手で素早く床の木片をつかむ。左手にそれを持ち替えながら、断面を見る。
 特に、腐敗していたわけではないようだ。これなら、少々力が加えられても、簡単に折れたりはしないはず。
 二つ、三つと拾う。手を休めることなく、素早くチェックする。
 おかしいな。
 心の中だけで首を捻る。
 どうも割れ方が不自然だ。自然に折れたものなら、もっとこう、木の繊維に沿って裂けるような感じになるのではないか。なのに、手にした木片の断面は、非常にコンパクトだった。こうなるには、強い力で一気に叩き割るか、あるいは――。
「すみません。後は私が」
 ようやく近付いたダニエルに、ロイは笑顔で手すりの残骸を引き渡した。その背に、声がかかる。
「では、ダン。ガレージに案内するので、付いてきてくれ」
「はい」
「奥様は、どうぞお部屋の方に」
「分かったわ、レイモンド」
「奥様、本当に申し訳ありませんでした」
「もういいのよ、リンダ」
 そんな会話を背後で聞きながら、ロイはレイモンドの後を追い、庭に出た。
 あるいは――。
 ロイの眉間に、小さく皺が寄る。
 あらかじめ、折れやすいように切れ目をつけていたか。その、どちらか……。

 

 
 
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