エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第三章 昏迷  
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 再び、黙々と作業に入るマシュウの姿を残し、ロイはその場を後にした。花を携え、館に入る。綺麗に修復された階段を上り、夫人の部屋の扉をノックする。
「奥様、お車の用意ができました」
「分かりました。すぐに仕度するので、中に入って待っていてちょうだい」
 その柔らかな声に従って、扉が開く。
 うっ――。
 軽い眩暈が、ロイを襲った。
 まただ。
 小さく首を振る。
 また……。
 この館に潜り込んで、すでに十日。初日の階段での事故以来、特に夫人が狙われるようなことはなかった。守る身としては喜ばしいが、犯人探しという点では膠着状態に陥った。会話や行動を通して、それとなく住人達の人となりを探ってはみたが。特にこれといった成果は得られなかった。当初予想していた、夫人に対する不穏な空気もない。寡黙であったり、職務に忠実過ぎたり、多少そそっかしいなどの欠点はあっても、使用人達は総じて誠実で、何より夫人を慕っていた。
 穏やかな日常が繰り返される館。だが、まるで変化がなかったわけではない。どこか納まりの悪い、落ち着かない空気は確かにあった。誰あろう、ロイ自身の中に。
 どうも、ここのところ具合が悪いのだ。体というよりは、気持ち的なもののように思う。急にわけもなく、気が滅入るのだ。多分、無意識のうちに、無理を強いられているからだろう。
 目の前に立つ人物が、ひょっとしたら殺人を企てているかもしれないという緊迫感。その者から、絶対に夫人を守らなければならないという使命感。それに加えて、自らを偽るという作業も、ロイにとってはかなりの労苦だった。特に執事のレイモンドは、何かにつけて過去の経歴を尋ねてくる。その都度ロイは、完璧に作り上げた嘘を述べるのだが、やはり心の内は穏やかではない。今の一言で素性がばれたのではないか、疑いを持たれたのではないかと冷や冷やする。
 そんな一瞬たりとも気の抜けない生活に、自然と眠りも浅くなり、ロイははっきりと不調を自覚せねばならないところまで来ていた。
「ティアートさん?」
 扉を開けたリンダが、心配そうにロイの顔を見上げる。その表情に、いったんは笑みで答えたが、ロイはすぐに顔を強張らせた。彼女の目の光が、どこか訝しげに思える。疑心暗鬼だと冷静に判断しながらも、その考えを打ち捨てることができない。
「大丈夫……何でもない」
 一本調子にそう言うと、ロイは体を進めた。歩くことだけに意識を集中する。床を見つめたまま、とにかく夫人の側まで行く。薄紫のドレスの裾を捉え、ロイは立ち止まった。顔を上げる。
「そこにかけて、待っていて下さいな」
 甘い香りを含む空気が、ロイを包む。艶やかな髪を、掌より大きなブラシを持つレジェッタに預け、エレノアが微笑む。白く細い腕がしなやかに伸び、淡いクリーム地に小花が散らされた小さなソファを示す。
 ロイはちらりとそれを見ると、さらに一歩進んだ。
「あの、これを。トーマスさんから」
「まあ」
 笑顔が輝く。
「もう、そんな季節なのね。綺麗だわ」
 ロイの手から、花を受取る。夏の盛りを示す涼しげなその花の色を、愛しげに見つめた後、エレノアは囁くような声を出した。
「ありがとう。嬉しいわ」
 菫色の瞳に、柔らかな光がたゆたう。
 ロイ……。
 唇が、そう動いたように思えた。その呼びかけに、体が絡め取られるように感じる。
 ロイの脳裏に、朝露の連なる蜘蛛の糸のイメージが過る。その銀の煌きに、誘われる。そっと触れる。あまりにも繊細な感触は、肌に刺激を残さない。しかしロイは、その存在を明確に意識した。
 張り巡らされた銀の網が、心を縛る。世界が翳り、藍と紫を混ぜたような色の空間に覆われる。不意に強烈な不安を覚えて、ロイは体を動かした。脆く儚い銀の糸が、難なく千切れる。空間に哀しげな光を刻みながら、糸が消える。
 その時、ロイの耳元で風が唸った。轟音が、下から上へ昇る。ロイは落ちていた。どこまでも深く。その存在の、消え去るところを目掛けて。
 拳で胸を押さえる。がくがくと震える膝に、力を込める。遥か遠くで聞こえる音に、必死で縋りつく。
「お待たせ」
 澄んだ響きが、ロイを闇からすくい上げた。視界に現実が戻る。気遣うように眉を寄せるリンダとレジェッタの顔。そして、仄かに微笑を湛えるエレノアの顔。
「では、行きましょうか」
 透明な主の声が、その部屋に響く。
 額に滲んだ玉の汗を拭いながら、ロイはエレノアを見つめた。夫人と連れ立って部屋を出る。まだ、膝が震える。気分が悪い。体が重い。
 今、自分は一体、どんな姿をしているのだろう。あのメイド達の表情が語るように、同情すべき状態なのか。それとも、エレノアが見せた微笑が示すように、別段気にとめるようなことのない、ちゃんとした状態なのか。
 思考が回る。ぐるぐると螺旋を描き落ちていく。
 ロイは、その深みの中で、足掻き続けた。

 

 
 
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  第三章・2