エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第五章 求める心  
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「不思議ね」
 夢の中で聞こえる音のように、エレノアの声が柔らかく響いた。
「海を見たのは大人になってからなのに、なぜか、子供の頃を思い出させる」
 左手で帽子を押さえ、髪とドレスを風の自由に任せたまま佇むエレノアを、ロイは見上げるように見つめた。深い菫色の瞳が、目の前の海と同じく、穏やかな波を湛えて揺らめいている。どこまでも優しい、故に儚げな光を秘めた瞳。その瞳に映すには、この世の全てが残酷で穢れているかのように思えるほど、澄んだ輝き。そして……。
 ロイの心臓が、短気な音を奏でる。急に、全身を重く感じる。
 いつも、そうだ。いつも……彼女の瞳の中にある光。その一番深いところに自分の心を合わせた瞬間、こんな風に……。
 ロイはエレノアを見据えたまま、ふらふらと立ち上がった。その瞳に、吸い込まれるかのように近付く。手を伸ばさずとも触れることができるくらい、接近する。
 ねえ……。
 と、彼女の唇が動く。
 違う、違うんだ――。
 わたし……。
 この気持ちは、この乱れは、そんなのじゃなくて、ただ――。
「うっ」
 ロイは、ぐっと自分の頭を抱え込んだ。抉るような圧迫感が、頭蓋骨を軋ませる。その痛みに、全てが絡め取られていく。
 落ちていく。どこまでも、落ちていく。
 ありとあらゆる負の感情が、ロイの心を奪い、支配し、やがて一つの答えを導き出す。新しく与えられたものではない。ずっと、自分の心の底に、眠り続けていた答えだ。
 ロイは一歩、海に向かって足を進めた。しかしその目は、映る景色ではなく、深い心の渕を捉えていた。そこに輝く、妖しい光。魅入られたように、その光に引き寄せられる。
 ロイはまた一歩、前に進んだ。耳に、甘やかな囁きが木霊する。緩やかに感覚が薄れ、心が凪いでいく幸福に浸る。やがて、この幸せは、跡形もなく消えてしまうだろう。それでも構わない。悲しみも、苦しみも、共に失せるのであれば。この波に浮かぶ水泡のように、無なる存在となるのであれば……。
 ロイ。
 踏み出した足が止まる。
 声が……。
 虚ろに唇が動く。
 声が……聞こえる……。
 ロイ、聞こえる?
 誰だろう。エレノア?……いや……。
 ロイ、返事をして――ロイ!
「…………?」
 ロイは背後を顧みた。途端、全身が、金縛りにでもあったかのように固まる。そこにあるのは、紫色の瞳。美しく、妖しい煌き。己の心の深淵にあった、あの光と同じ……。
 紫の瞳が潤む。胸が、締め付けられる。はらはらと共に涙を流し、今一度、心を一つにする。
 ロイは、エレノアを抱き締めようと手を伸ばした。そっと、その体を抱え込む。しかし、エレノアは、陽炎のように揺らめいて、ロイの手をすり抜けた。
 天が、ゆるりと回転する。背中から、海に倒れる。
 起き上がれば済むことだった。水位は、腰の辺りまでしかない。あるいは、全身の力を抜いても良かった。力強く波が、ロイの体を押し上げ、浮かせたであろう。
 だが、ロイは、鉛のようにその身を強張らせたまま、海の底に沈んだ。視界の中で光が揺れる。水の波紋が美しい。その向こうに透けて見える空の、なんと澄み切ったことか。いくつもの小さな泡が、空に向かって昇り、弾け、消えていく。
 心を合わせる。水の泡と同化する。
 消えていく、全てが……。
 閉じていく、世界が……。
 僕はもう、永遠に……。

「ロイ!」
 
 誰かが……僕を……呼ん……で……る……?

 

     
 
 
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  第五章・2