犯人はエレノアだった。車の事故も、手すりの事件も。彼女の命を執拗に狙ったのは、彼女の心だった。さらにその心が、他者をも巻き込んだ。
「でもね」
モイラが言う。
「共鳴と言うからには、相手にもその気持ちがあったってことになるわよね」
ロイの顔を覗き込む。
「少なからず、彼女と同じ気持ちを持っていたってことに」
その目を直視できず、ロイは顔を背けた。
自分の中に、そういう気持ちがあること。死に対する願望があること。
はっきりと意識したことはなかったが、朧げながら感じていた。自分には強さがない。何に対しても、完全である力はない。迷い、流され、立ち止まり、ともすれば、逃げることだけを考えてしまう時もある。そして、それを許せない。
こうなると、もう悪循環だ。そんな自分を責め、否定し、さらに心が弱まる。自分の進むべき道の一つに、最も卑劣で、最も安易な選択肢を、心の隅に置いてはいなかったか。そう問われると、ロイは否定する自信がなかった。
「まあ……」
語尾を少し上げるようにして、モイラが続ける。
「そういう気持ちって、どんな人にもあるのかもしれないけど」
「モイラ……にも?」
いかにも意外そうなロイの声に、モイラは軽く口元を歪めた。
「あるわよ、私にだってそういうの。例えば」
人差し指を、顎に宛てる。
「大事なデートの前なのに、髪型が決まらなかったりとか。いい男に呼びとめられて、よしっと思ったら、背中のファスナーが開いてただけだったりとか。そうそう、大事なプレゼントの指輪を、トイレに流してしまった時も、思ったわね」
「……そういう……レベル……」
「そう、そういうレベル」
ぐいっとモイラが身を乗り出す。黒髪が、ロイの肩先に触れる。
「その程度なのよ。どんな悩みも、命の前では」
「一括りにしちゃうんだ。悩み、全て」
「そっ」
誇らしげに胸を張るモイラに、逆らう気持ちはなかった。それでいいと思い、可能なら、自分もそうありたいと思った。そして、このエレノアも……。
花を胸に抱えるようにして持ちながら、エレノアに近づく。ベッドの側の、小さな丸椅子に腰を下ろす。エレノア――と、二度呼びかけるが、彼女の顔は窓の外に向けられたままだ。心を閉ざしたというよりは、空になってしまったような印象を受け、目を伏せる。色とりどりの花が、空虚な気を吸って、徐々に褪せていくように感じる。白く、無となってしまうような錯覚を覚える。
「ロイ……」
モイラに促され、ロイは立ち上がった。
「お大事に」
と、小さく呟き、手に持っていた花車を、部屋の片隅に置く。
薄汚れ、やがて頭を垂れ、腐り朽ちていくこの花を、エレノアは受け入れてくれるだろうか?
そんな思いを残し、部屋を後にする。
入った時以上に、空間の違いを意識する。心が自由に解き放たれる感覚に、軽く酔う。
「鏡が、なかった……」
廊下の壁に背を預け、ぼんやりと白い天井を見上げながら、ロイが言った。
「今、思えば、使用人の個室以外で、鏡を見かけなかった。そのことに、もう少し注意を払っていたら」
「ここまでにはならなかった――なあんて、言ったりしないでよ。遅かれ早かれ、彼女はこうなっていたわ。彼女の思念、その要因の元を断たなければ」
「でも」
ロイが俯く。
「その男、今どこにいるか、分からないんだろう? 昔、別れたその――」
「別れたじゃなく、逃げたよ」
モイラの声に、少なからずの毒が含まれる。その気持ちは、ロイにも理解できた。
エレノアが心を病むきっかけとなった出来事。それは、当時付き合っていた男が、彼女よりも十若い少女と逃げたことに始まった。こういうことにも、ある種ルールがあると思う。たとえ心変わりであろうと、別れるにはそれなりのけじめをつけるべきだ。だが、その男は、ただ逃げた。エレノアから、多額の金を引き出した挙句に。
おそらく、端からだますつもりであったのだろう。しかし、エレノアはそれが理解できなかった。男が悪いのではなく、自分に何か非があるのだと考えた。そしてそれを、自分の年齢にあると思い込んだ。
極端に老いを恐れ、彼女は少しずつ病んでいく。老いから逃れるため、死を渇望する。それが、五年前、彼女が病院に通うことになる要因であった。