エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第六章 その手を  
               
 
 

「今さら、逃げた男なんかに用はないわ」
 ぴしゃりとモイラが言い放つ。
「応えられなかった男にも」
 モイラの目が、伺うようにロイの瞳を探る。
「僕は……」
「まあ、こればっかりは、仕方ないことだけど。後、死んだ男もね」
「……死んだ男?」
「亡くなった旦那様のこと。五年前、病と戦うエレノアを支え続けた人。その、愛でね」
 言葉の終わりが、柔らかく流れる。ロイは、不思議そうな顔をモイラに向けた。
「つまり、誰かに愛されることで、彼女はまた立ち直ると?」
「大きな支えとなることは確かよね。病気自体は、治療で治すとしても」
 モイラの顔に、笑みが浮かぶ。例によって、勝ち誇ったような輝かしい笑みに、ロイは軽く首を振った。
「君にしては、随分と他力本願な考えだね」
「そうかしら」
 モイラの細い顎が、つんと上がる。
「愛する夫を失って、エレノアは再び死を渇望した。でも、彼女は同時にその想いから逃れんと足掻いた。私達に護衛を依頼したことが、その証明でしょ? 無意識下で送ったSOS。でも、それも一つの意思よね。間違いなくエレノアの意思。あまりにも弱いけど、一人で立つことはできないけど、彼女には生きる意思がある。それで充分よ。大体、本当に、純粋に、一人だけの力で立っている人間なんているのかしら。私は見たことがないけど?」
「そりゃ……確かに人は、一人で生きているわけじゃないだろうけど。でも、もう少し心を強く持って、病を克服しない限り、また同じことが繰り返されて」
「そう簡単に、人は死なないわよ。まあ、逃げる男ってのは、それに比べると、また引き当ててしまうかもしれないけどね。でも、そうじゃない男だっているでしょ」
 モイラはそこで、勢い良く壁を背で蹴った。くるりと半身を返し、ロイの正面に立つ。
「負の感情を、無理に否定することはないわ。思い悩むことも、時として死を望むことも。それらを消すことができないと、自分を責める必要もない。苦しい時は、誰かに助けを求めればいいの。一人で立てないなら、誰かの手にすがればいい。そして」
 モイラの顔が、右を向く。
「それは、手を差し延べた者にとっても、幸福であったりする」
 ロイは左を向いた。モイラの視線の先を追う。一人の男が、こちらに向かって歩いてくる。むっくりとした体つき。さえない風体。だが、その胸に抱える花束と、日焼けした顔に埋まるように付いている目の、なんと優しげなことか。
「……マシュウ・トーマス」
 ロイの呟きに、モイラが囁く。
「そうそう、例のレジェッタの件、解決したわよ。セキュリティがかなり厳重で、調べるのに苦労したけど。お金の出所がやっと分かったわ。つまりは、彼」
「マシュウ――さん?」
「そう。彼女、メイドを辞めるつもりだったらしいの。ひょっとしたら、彼女にも少なからずの影響があったのかもしれないわね。でも、トーマス氏が彼女を引き止めた。夫人が心から彼女を信頼しているのを知っていたから。それで、なけなしの給料から、月々彼女にお金を渡して、残ってもらっていたというわけ」
 マシュウが帽子を取り、ロイ達の前で頭を下げた。表情は堅い。彼にとって、自分がどういう存在なのか、その顔で分かる。助けを求めたエレノアの手を、握ることができなかった男、だが、その男には何も非はない、そういう存在。
 顔を強張らせたままエレノアの部屋の前に立つマシュウを、ロイは背で見送った。心持ち、足を早めるようにしてその場を去る。随分と進んだところで、ドアの開く音がした。
 ロイが立ち止まる。
「エレノアは……彼女は……。彼を、受け入れるだろうか」
「それは分からないわね。せっかく白羽の矢を立ててくれたのに、あなたが彼女に応えられなかったのと同じで」
「……僕は……」
「人間って、不思議よね」
 モイラが呟く。
「自分にとって最も大切な魂を見つけるのに、呆れるほど鈍感なんだから」
 ロイはモイラを見つめた。
 モイラにとって、最も大切な魂とは、誰のものであるのか。そして、自分は……?
「さっ、行きましょう」
「……ああ」
 ロイはそう呟くと、もう一度だけちらりと後ろを顧みた。
 真っ白で、無機質なエレノアの部屋が、目に浮かぶ。小さな丸い椅子に座り、おずおずと花束を差し出すマシュウ。その花を、エレノアは儚げな瞳で見つめ、そして微笑む。その美しさに、その心に、「まあ」と感嘆の声を上げ、マシュウを見る。そして、そして――。
「ロイ?」
 片眉を引き上げ、モイラが言った。
「なに一人でにやついてるのよ。気持ち悪い」
 怪訝な顔のモイラに苦笑する。それでもロイは、頭の中にある二人の姿を消そうとはしなかった。奇跡の時を持つ、あの美しい庭に佇む二人を、祈るような気持ちで見つめ続けた。

 

  終わり  
 
  拙い作品を最後まで読んで下さって、感謝致します!  
 
 
 
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  第六章・3