リリア(ロイ&モイラ・シリーズ1)                  
 
  第四章 結末  
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「今日、正午にモーガン氏がお見えになる。リリアちゃんの預け先が見つかったそうだ」
 エアポートでの騒動から五日目の朝、デュバル所長にそう告げられたモイラは、ロイが意外に思うほど淡々とした口調で言った。
「そうですか。わかりました」
 彼女はそれだけを答えると、リリアの待つ資料室に入った。いつも通りに服を着せ、髪を梳かし、身だしなみを整える。最近買ったばかりの、絵本を取り出して読み聞かせる。
 視線こそ、その本に向けられてはいるが、相変わらず無表情なリリア。
 そのリリアと、柔和な微笑みを浮かべているモイラの顔とを見比べながら、同じ部屋で資料の整理に従事していたロイは、その仕事の手を止めた。
 モーガン氏が娘を手元に置いて育てようが、施設に預けて育てようが、僕らが口を挟むことではない。けど――。
 一冊目の絵本を読み終えたモイラが、別の本を数冊手にし、リリアに伺うような仕草をした。もちろん、反応はない。にも関わらず、しばらくリリアの顔を覗き込んでいたモイラは、おもむろに一冊を選び、再び読み始めた。モイラの優しい微笑に、リリアの母親の姿が重なる。
 アイラ……。
 ロイは心の中で呟いた。
 アイラは、現在病院に入院している。精神に多大な損傷を受けている――と、医師に判断されたのだ。そしてその要因は、医師でなくとも容易に想像できた。
 自分と同じ姿をしたリリアの存在が、アイラの心の底に眠っていた感情を、大きく揺り動かしたのだろう。しかしその感情は、あの人形のような少女に伝わることはなかった。アイラの心は、受け止める相手を求めて虚空を彷徨う。結果は……。
 誰も、彼女の心を受け止めることができなかった。デロスという特異な世界で生きてきたアイラに、その結果を処理する能力などない。いや、それ以前に、自分の中に起こった感情にどう対処すれば良いのか、それすらも分からず混乱していたであろう。
 こうして、彼女の精神は破綻した。
 当然、離婚の件もうやむやになってしまった。無論、あくまでも妻の不貞を武器に、その申し立てをすることは可能だったが、モーガン氏はそうしなかった。
 精神に異常をきたしているアイラに対して、なんらかの心境の変化があったのか。それともただ単に、現状では不利な条件での離婚になると、弁護士に説得されたのか。モーガン氏の真意は分からなかったが、結局彼は、アイラに対しては夫としての、リリアに対しては父としての、義務を果たさねばならなくなった。
「義務か……」
 思わず口をついて出たロイの言葉に、モイラが反応した。
「なあに? さっきからやたら深刻そうな顔をしてるけど、何を考えてるの?」
「あっ、いや……」
 モイラの問いかけに、ロイは続く言葉を呑み込んだ。視界にリリアの姿が入ったためである。
 それを見たモイラは、持っていた絵本をリリアに持たせると、軽く二回、その少女の蜂蜜色の髪を撫でた。そしてゆっくりと立ちあがり、彼女の側を離れると、促すようにロイに微笑んだ。
「いや、つまり……」 ロイは小声で言った。
「いつから人は、自分の子供を愛するのが義務になったのかってね。本能的なものじゃなかったのかって」
「あら、義務ってのも本能じゃない?」
「義務が?」
「そう」 モイラは軽やかな笑みを浮かべて言った。
「食べたい、眠りたい、それから、やりたい。『〜したい』ということだけが本能だと思いがちだけど、自分が今何をしなければならないかというのも、本能なんじゃないかしら。ほら、ほとんどの動物は、親が命をかけて子供を守って育てるじゃない。種の保存のために。あれは『〜したい』というよりも、『〜しなければならない』という感覚だと思うけど?」
「それは、確かに」 ロイは頷いた。
「そういう意味では、この両者のバランスが上手く保たれていれば、無理に何かを押さえつけたりする必要はないのかもね。小難しいこと考えなくても、ちゃんと正しい方向に向いているのよ。本来は」
「本来は――か。じゃあ、人間は、その『〜しなければならない』という本能が、何らかの進化の過程で欠如していったってこと?」
「さあ、進化の過程が、なんてのは分からないけど。たぶん、多過ぎるってことじゃない?」
「多過ぎるって、何が?」
「人間の周りには、いろいろなモノがあり過ぎるということよ。というより、それを認識する能力が高いということなのかもね。とにかくそのために、『〜したい』という欲求が、あるいは『〜しなければならない』という義務が、他の動物よりたくさんできてしまう。そして、それらを無理に押さえつけたり、反対に過剰に満たしたりした時、人は、最も重要で本質的な本能を、見失ってしまうような気がするの」
「全く意味合いが違うけど、モイラが前言ってたことは当たってるよ」 
 ロイはそう言うと、抜けるような青い瞳を曇らせた。
「人間の本能は動物以下ってね」
 小さな空間を暫しの沈黙が包んだ。やがてモイラが、口を開いた。
「わたしはね、ロイ。人間に対してそれほど悲観的じゃないのよ」
 ロイはモイラを見つめた。その顔には微笑みが浮かんでいる。
「自分を取り囲む環境が、どれほど複雑であろうが、どれほど困難であろうが」
 いつも思うことだが、モイラの微笑みは美しく、そして、強い。
「人間にはね、そんな中でも、今、自分がやらなければならないことを本能的に感じる力があると、信じてる。わたしは、そう信じてるの」
「…………」
「モイラ、ロイ、モーガン氏がお見えだ。リリアちゃんを連れて、至急応接室に来てくれ」
 しゃがれたスピーカーの声に、二人は微かに顔をこわばらせた。やがて、お互いの目の奥に、共通の意思を確認したモイラとロイは、ゆっくりとリリアに近づいた。
「リリア、お父さんがお迎えにいらしたわ。行きましょう」
 モイラはそう優しく言うと、この日何度目かの柔らかな微笑を、リリアに見せた。
「よ〜し!」
 ロイはそう言うと、ひょいとリリアを担ぎ上げた。そして、持ち前の人なつっこい笑顔を、この日初めてリリアに向けた。
 今、自分がやらなければならないこと。
 それが、あまりにも空しく、力ないものであることを、二人の優秀な頭脳は認識していた。しかし、その時彼らは自らの本能の命じるまま、この残されたわずかな時間、ただ精一杯の微笑みをリリアに注ぐのだった。

 

 
 
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  第四章・1