不意に、モイラは体のバランスを失った。恐ろしいほどの力を受けて、ふらふらと後方によろめく。とっさにロイがモイラを支える。その隙に、アイラは彼の左腕からリリアをもぎ取った。
アイラはしっかりと強くリリアを抱き締めながら、その場に崩れるように跪いた。徐々に表情は和らぎ、紛れもない微笑が薄紅色の唇に浮かぶ。優しくリリアの髪を撫でながら、慈愛に満ちた眼差しで我が子の顔を覗きこむ。共に類まれな美貌を持つ母と娘。抱き合い見つめ合う二人の姿は、さながら一枚の至高の名画のようであった。ある一点を除けば――そう、娘の方、リリアの表情が、あまりにも無味であることを除けば……。
「アァァ……」
深い慟哭と共にアイラの顔が急速に曇る。名画の時間は、ほんのわずかであった。呻くような哀しい吐息と共に、アイラの右手が高く上がった。
高い音が、響いた。
みるみるうちに、リリアの頬が異常な赤味を帯びる。が、その表情は変らない。アイラの手が震えながら、また上がる。
二度。
三度。
そして。
「だめよ、アイラ!」 モイラは叫んだ。
「そんなのは、だめ!」
「ワアァアア!」
締め付けるような声と共に、なおも振り上げられたアイラの腕を、モイラは強くつかんだ。素早くロイがリリアを引き寄せる。アイラから隠すように、自分の背後へと押しやる。
途端、嘘のようにアイラの動きが止まった。呆けたような表情で、宙を見ている。
そっと、モイラはつかんでいた手を離した。白く細いアイラの手首に、くっきりとあざが残る。
その途端、アイラの動きが止まった。呆けたような表情で空を見る。モイラはつかんでいた手をそっと放した。白く細いアイラの手首にくっきりとあざが残る。
「……アイラ」
「そこを動くな!」
突然の怒声に、モイラとロイは後ろを振り返った。そこには、銃を構えた空港警備員が三人。
「くそ! ちくしょー!」
そう叫んだのは、モイラでもロイでもなかった。それはアイラの横に座っていた男が発した声だった。彼は座席から飛びあがると、どうやって持ち込んだのか小さなレーザーナイフを懐から取り出し、自分の最も近くにいた女性に挑みかかった。恐らく人質にでもしようとしたのであろう。しかし、彼の目論見は失敗した。挑んだ相手がモイラだったのである。
モイラは軽く男の腕をかわすと、そのみぞおちに一発肘鉄をくらわせ、さらに向こう脛に蹴りを入れた。呻きながら前倒しになった男の左腕を取り、背後に回り、その背中に全体重を掛ける。
男は突っ伏したまま、なおも呻いた。
「何をぼやぼやしているの!」
モイラは、銃を構えたままピクリとも動かない空港警備員に向かって叫んだ。
「早く捕まえてちょうだい! パスポート偽造、及び輸入禁止物の密輸、それに彼女――」
モイラは目線でアイラを指した。
「彼女はこの男の悪事の目眩まし用に、無理やり船に連れ込まれたの」
「……ウゥ……ゥ……」
突っ伏した男が何か言おうとしたが、モイラがさらに力を込めて押さえつけたため、それは成し遂げられなかった。
「さあ、早く!」
警備員達は一瞬顔を見合わせた。そして彼らは行動した。踏み込む前とは異なるターゲットを、速やかに取り押さえたのだ。
こうしてJP−407は、予定時刻を十分オーバーしただけで、無事、乗客を乗せ出発した。
モイラ達の強行突破を無罪放免にしてくれた一人の犯罪者と、アイラを残して。