スエピキ、ピンクマン!                  
 
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「グッ、グホッ」
 激しくむせて、私は胸を叩いた。はずみで、傍らに積み上げてあった本の山が崩れる。鯉の滝のぼりならぬラーメンの咽頭のぼりに、鼻の奥が引き攣る。
「フィー、グッショ!」
 くしゃみと共に、進むべき道を誤ったラーメンが飛び出る。鼻水に包まれて、それはぽとりと散らばった本の上に落ちた。
 私は座ったまま体をひねり、後ろを見た。万年床の枕元。よれよれの青いカバーがかかったふとんの向こうに、整然と並ぶものを捉える。眼鏡立て、腕時計入れ用のトレイ、目覚まし、そしてティッシュケース。
 腕を伸ばし、指に引っ掛けるようにして、そのティッシュケースから二枚を取り出す。
 私は、不本意な最期を遂げた鼻水まみれのラーメンを、それでぬぐった。とばっちりをくった本を、積み直す。その一番上に、悲劇のラーメンの臨終を見届けた本を置く。と、その手が止まる。
 私は、本を手にしたままそれを引き寄せた。絵本だ。確か加奈が、五才か六才か。それぐらいの時に、私が買ってやった本だ。
 あの頃は、可愛かったなあ。いつも、パパ、パパと追いかけてきて。膝にしがみついて。ちょっとでも離れると、泣いて……。
「うっ……」
 私は、目頭に熱いものを感じて、顔を天井に向けた。涙が零れぬように、という理由ではなく、零れた涙で眼鏡のレンズが汚れぬように、そうした。
 熱いものが、徐々に収まる。私は顔を元に戻した。
『さくらちゃん、シマウマに乗る』
 それが、絵本のタイトルだった。額に傷のある、とても子供向けとは思えない目つきの悪いシマウマと、くりんとした大きな瞳をした漆黒の肌の少女が、なぜにさくらちゃん?と、大いに疑問を覚える品ではあったが。小さな子供用の絵本や童話は、男の子が主人公のものが多く、なかなか見つからない女の子が主役だったので、これを買った。もっとも娘は、表紙のシマウマを見るなり震え上がり、一度も開くことはなかったが。
 私は、凄むシマウマに怯むことなく、ページをめくった。この絵本は、ただ読むだけではなく、なぞなぞを解いたり、迷路を進んだり、とってつけたような足し算問題をこなしながら、読み進める仕組みになっていた。間違えると、わんわん泣いてるさくらちゃんと、今にも飛び出して噛みつきそうなシマウマ絵のページに飛ばされる。
 一応、そのページの下には、
『もういちど、がんばって!』
 などと書かれているが、いたいけな少年少女達は、恐怖のあまり、二度と挑戦しようなどとは思わないだろう。
 ページを進める。次々と難問を突破する。最後の関門、砂糖壷をひっくり返して、真っ白になったシマウマを助けてと、切なそうな目を向けるさくらちゃんのために、シマウマのぬり絵を始める。
 こんな時ですら、その白シマウマは、こちらに向かってガンを飛ばしている。ページには、
『どんなもようか、おぼえているかな?』
 と書かれているが、そこは大人の智恵で、前のページをめくりながら塗りつぶしていく。なるほど、尻と足は、縞模様が横にあるんだ、などと感心しながら塗り終える。
 私は、次のページをめくった。正解の絵が載っていて、これと同じだった人は二三ページに進むとある。気の毒に、間違った者は、あの恐ろしいシマウマが待っている二一ページに進まなければならない。
 私は、軽く口元に笑みを浮かべながら、二三ページのところを開けた。
『ありがとう。これでわたしたちは、ともだちだよ』
 にっこり笑うさくらちゃんに、なんでここまでして、君と友達にならなくちゃいけないのかと尋ねたかったが、私はそれを押さえて続きを読んだ。
『また、こまったことがおきたときは、わたしをたすけてね。わたしも、あなたをたすけにいくよ。だって、ともだちだもん。そのときは、さくら!って、おおきなこえでよんでね』
 罪なことだ……。
 私は思った。
 例えばここに、いじめられている子供がいたとして。誰も助けてくれず、すがる思いで、さくらちゃんの名を呼んだとしたら。それこそ、どこにも救いはないのだと、思ってしまうのではないだろうか。困っている友達を助けましょうというのなら、もう少し違う話にすればいい。いや、友達だから助けるという考えが、そもそも間違っている。
 友達ではなくても、見知らぬ者でも、困っている人を見かけたら、手を差し伸べる。それが、人の正しい道だ。
 私は、憤然たる思いでその絵本を閉じた。積み上げた本の上に、それをぽんと放り投げる。すっかり伸びてぬるくなった、カップラーメンの残りをすする。
 ふと、どうしようもないほどの寂寥感が、私の胸を支配した。顔を上げる。その感情に、眼鏡のレンズが犠牲にならぬよう、私はしばらくそのままの姿勢を保った。

 

 
 
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  第一章・2