短編集1                  
 
  天国と地獄  
               
 
 

 

「一走りするか」
 俺はそう思い立ち、ヘルメットをつかんで外へ出た。むっとする熱気が不快だった。あの激しい夕立は、何の役にも立たなかったらしい。
 ドアを閉めようとしたその時、ふと、視界をひらりと過ぎるものがあった。灯りに誘われて、一匹の蛾が飛び込んで来たのだ。そいつはそのまま、ドアの縁に止まった。このまま閉めると、潰れてしまう。面倒だった。
 俺はドアを閉めた。銀色の粉が舞った。
 それから十分後……。
 俺は自分の生を終えた。何でもない交差点で曲がり損なって転倒したのだ。そこへ運悪く、ダンプが突っ込んできた。
 あっけないもんだ。
 俺は死んだ。

 

 延々と続く長い行列。
 あれから、どのくらい時間が経ったのだろう。短気な方ではないが、さすがに飽きてきた。後ろを振り返ると、さらに長い行列が続いている。
 完全な人手不足だな。いや、天使不足……う〜ん、天使じゃないか、ここはまだ天国じゃないのだから。
 死んですぐ、天国か地獄へ行くのかと思ったら、そうではないらしい。いわゆる審判というのが行われるそうだ。この行列の整理係のオッサンに聞いたところによれば、生前の行いについて裁判形式で検証していくとのことだった。一人一人、御丁寧なこった。
 面白いと思ったのは、自己申告もあり得るということだった。天国側、もしくは地獄側の調査が、十分でない場合もあるのだそうだ。自分のやった善行、あるいは悪行――まあ、こっちをわざわざ言うやつはいないだろうが、それらが取り上げられなかった場合、自己申告をして検証してもらうことができる。オッサンの話によれば、きわどいケースで自己申告をし、大どんでん返しとなった人間は、結構多いそうだ。ほんの些細なことでもプラスの評価となる場合があるので、今のうちによく思い出しておくんだなとアドバイスをくれた。ちなみに嘘はダメらしい。閻魔大王ってのがいて、すぐ見破ってしまうそうだ。
 些細なこと。
 一応小学校の頃、隣の机に座っていた女の子が、消しゴム忘れた時に、俺のを貸してやったことがあったのを思い出してみたが――。
 さて、こんなもんで、天国へ行けるのかどうか……。

 

 その中は、確かに裁判所のような作りだった。いや、もっとも本当の裁判所がどうなってるのか、俺は見たことがない。要するに、テレビのドラマとかでやってる裁判所のシーンに似ているってことだ。
 もちろん、いろいろと違う所もある。まず弁護士と検事。これを務めるのが天使と悪魔である。一見両者とも普通の人間のように見えるのだが(格好もスーツとか着てたりするし)、左の男には大きな白い翼が生えていて、右の男には黒い翼と尖ったしっぽが生えている。まさか、こんなべたな姿をしているとは思いもしなかった。
 それから傍聴席。ここにはそれがない。お蔭で結構圧迫感がある。もっとも空間的な狭さより、密室での裁判という形式から来るものかもしれないが。
 後、何より変ってるのは電光掲示板。裁判官(彼はどう見ても普通の人間の姿をしている)の後ろの壁に、ど〜んとそれがあるのだ。二つに分かれていて、左に天国、右に地獄と書かれている。その下に、ポイントが出るようになっている。
 裁判の方法に至っては、全くテレビで見たものとは違う。証人喚問みたいなのはなく、俺本人に何か聞くでもなく、ただ天使と悪魔が俺の生前の行いを一つ一つ上げていくのだ。そしてそれを聞いていた裁判官が、それぞれの事柄について、その場で判断を下していく。
「ただ今の件に関しては、天国に3ポイント」
 てな具合に。
 そう、この裁判は、ポイント制なのだ。天国2104ポイント、地獄2112ポイント。今の時点でのポイントは、こうだ。
「続いて、一九九八年四月二十七日、午前八時二十四分の出来事です」
 白い翼の男が言った。
「彼はこの時間、電車に乗り座席に座っていました。車内は混んでおり、目の前に一人の老人が立ちました。彼はそのことを認識していながら、眠ったふりをして座り続けた。これは人として、明らかに問題ある行為です」
 それを聞いて、裁判官が頷く。
「この件に関しては、天国へ1ポイント」
 おかしい……。
 俺は思った。さっきからずっと思っていたが、やっぱりおかしい。ちゃんと問い質すべきだ。俺は思いきって口を開いた。

 
 
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  天国と地獄・1