御陵衛士逸話トップ

1. 伊東甲子太郎(1)せっかく分離できると思ったら・・・
慶応3年3月10日、伊東らは御陵衛士を拝命した。伊東は、13日、近藤勇・土方歳三と話し合って新選組分離の承認を取りつけ、さらに15日、会津藩公用人野村左兵衛や町奉行にも話をつけた。「意の如し」とゴキゲンの伊東は、16日、近藤・土方と酒を酌み交わしている。しかし、意気揚々としていられたのもここまでだった。なんと、分離後に拠点とする屯所が決まっていなかったのである。せっかく円満に分離を取り付けたのに、これでは、新選組を出ていけない。17日、伊東は(二日酔の頭を抱えながら?)三条に屯所を求めて昼夜奔走したが、うまくいかず、思わず「百計既に成りて此一事を欠く」とぼやく始末。翌18、19日も走り回った結果、やっと三条城安寺がOKしてくれ、20日にようやく新選組を出て行くことができた。新選組分離の承諾を取り付けてから一週間経っていた。

参考:「九州行道中記

<ヒロ>
なお、城安寺とは一泊との約束だったようで、翌21日には五条善立寺に引き移り、衛士たちはようやく一息つくことができたようです。この善立寺には、安政の大獄で捕縛された志士梅田雲浜が寄宿していたことがありますが、伊東らのことは伝わってないそうです。善立寺も、6月には引き払い、高台寺塔中月真院に移転していますが、移転した理由は伝わっていません。五条という立地が政治活動に不便だったからかもしれません。最初から伊東は三条にこだわっていましたし。月真院に決まった理由としては、同院の長谷川氏は、屯所を探していた伊東らが戒光寺に相談し、戒光寺長老に頼まれた春光院住職が、近くの月真院を紹介したのではと考えておられます。なお、春光院には、安政期に勤王僧月照が隠棲していました。

<ヒロのツボ>
乾坤一擲の新選組分離を円満になしえた伊東。なのに、実は、活動拠点となる肝心の屯所が決まっていなかった、という実話です。いろんな同時代人から「人物」だと称される伊東ですが、実はちょっぴり抜けてます(笑)。伊東のことを「策士」という方もいるようすけどこんなポカする人は策士とは言えないですよねえ。伊東って、道場主とかしてたわりには、たぶん、こういう日常的な事には気が回らなかったんじゃないでしょーか。あせって御大自ら宿舎を求めて走り回っているところや、あの実感こもるくやしそ〜な「百計既に成りて此一事を欠く」も、満足げな「意の如し」の後だけに、その落差がなんとも^^。


2. 毛内監物(1)母上の秘密兵器?
新選組隊士募集に応じて、毛内監物は、伊東・服部・篠原ら同志と一緒に上京した。その毛内の刀の鞘が異常に長いのを見て、伊東が「どうしたんだ」と聞いた。毛内がするりと柄を抜くと中が槍の穂のようになっている。皆が「何だ槍をさしている奴があるか」と笑うと、柄をまた元通りにして再び抜いた。今度は刀がすらりとでてきた。毛内は「これは母が考えた新武器である」と自慢したという。

出所:「維新前夜」『戊辰物語』の脚注より作成

<ヒロ>
戊辰物語は歴史書ではなく読み物です。著者は『新選組三部作』の子母沢寛を含む東京日日新聞社会部。子母沢は篠原秦之進の息子の恭親氏に聞き書きしたそうなので、そのときに聞いた逸話かもしれないし、それを脚色したものかもしれません。毛内は伊東らと上京したという説(西村兼文『新撰組始末記』)もありますが、『会津藩庁記録』では伊東らと同行したメンバーに含まれていません。この逸話が実際にあったものだとしても、上京時の話ではないのかもしれません。(→毛内監物 小史 上京)

<ヒロのツボ>
珍妙な新武器、どんなからくりなんでしょう?それをを考え出したのが、またお母さん(継母)の滝子って・・・。普通の母親は武器なんて考案しませんよね(笑)。でも、毛内自身も多芸多才ですし、父親も相当だったのですが、滝子も和歌・書画・茶道・華道・琴を修め、その道で高名だったのはもちろんのこと、和漢の書籍を講究し、なんと密かに武道の奥義を尋ねたという女性だったのです。実は、滝子の実家棟方氏(千石取の大身)は代々剣術の師範であり、伝流を伝授する家でもあったそうです。新武器の考案というのも、ありえそうですよね。

このエピソード、史実かどうかはともかく、毛内と同志のやりとりを含めて、ほのぼのしていていいなぁと思います^^。


3. 三樹三郎(1)大村益次郎にむっとする
慶応3年11月、兄の伊東甲子太郎が新選組に暗殺され、放置された遺体を引取りにいった同志のうち、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した。三郎は復仇に燃えたが、富山弥兵衛の忠告により思いとどまり、薩摩藩の庇護を受けることにした。そんなある日、三郎は、西郷隆盛の頼みで長州藩大村益次郎を訪ねたことがあったという。ところが、大村は手紙を書きながら応接したらしい。三郎はその無礼にむっとして、難詰しようとしたが、なんとか忍んで帰ったという。

出所:「岳父鈴木三樹三郎」等

<ヒロ>
三樹三郎というより大村益次郎の逸話カモ。いかにも大村益次郎らしいですよね(笑)。生き残りの御陵衛士と薩摩藩との関係はかなり密接です。、ところが、生き残りの衛士の手記・史談に、油小路事件以前の薩摩藩との密接な関係を示唆するものは見当たりません。衛士(伊東)と薩摩藩との関係をうんぬんいう人たちは、小説家子母沢寛に惑わされ過ぎのような気がします・・・。


御陵衛士逸話トップ