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九州行道中記は新選組分離前の伊東甲子太郎が九州を遊説したときの記録です。京を発った慶応3年1月18日から京都に戻って新選組を分離した翌日の3月21日までが記されています。伊東自筆(和歌が17首)で、この時期の伊東の行動、思想、そして人柄を知ることができる数少ない史料です。(九州行道中記の背景 )。下記は道中記を整理したものですがクリックすると原文と説明が読めます^^。



慶応3
1/18
伊東・新井・三樹ら島原木津屋で酒宴の後、伏見寺田屋へ。寺田某と合流その後、九州に向かうため、舟で淀川を下る。
■「世の憂きに濡るる袖さへ人はただ今の別れの涙とや見ん」「ますらおの袖の涙は別れ路に濡るるものとは思はざりけり」
1/19 朝、大坂の京屋へ。三樹と別れて伊東・新井、兵庫へ。湊川に寄って兵庫泊。やはり九州に向う大目付永井尚志を訪ねて雑談する
■「ますらをの心と共に春霞たつをば止めそあふ坂の関」「行く末はかくこそあらめ我もまた湊川原の苔の石ぶみ」
1/20 蒸気船神速丸(幕府御用船)に乗り込み、出航
■「波風の荒き世なれば如何にせむよしや淵瀬に身を沈むとも」
1/21 播磨を過ぎたところで一時停泊
1/22 伊東・新井・寺田、佐賀関港(現大分県)到着。小船で鶴崎に向かうが引き潮。途中から陸路鶴崎へ。夜、永井が鶴崎に。 hp:佐賀関町、鶴崎(現在大分市)
1/23 伊東・新井・寺田、鶴崎から肥後路に向かう(永井は日田へ)。宇津原(野津原?)で昼食。今市に宿泊。黒峠という難所を越える。 *豊後街道を西へ。
1/24 伊東・新井・寺田、堤村(豊後/大分県)で昼食をとり、久住で宿泊。hp久住
1/25 伊東・新井・寺田、大津宿(肥後/熊本県)で昼食をとり、内野牧泊。 *豊後街道
1/26 伊東・新井・寺田、坂梨(肥後)で昼食。山鹿に野宿。*豊後街道。hp坂梨 山鹿
1/27 伊東・新井・寺田、昼に南関(肥後/熊本県南関町hp)。伊東、慶応2年「長州征伐」における小倉・長州の闘いで肥後に避難した老少婦人の窮状を見て落涙。三池(筑後・福岡県)の尊王家清水(塚本源吾)宅に宿泊。 *薩摩街道を北上
1/28 阿部、下川、渕上(渕上郁太郎)が来会。
*阿部=三池藩藩医阿部俊哲、下川=下川瀬兵衛
1/29 伊東、清水と大宰府へ向う。瀬高宿泊。大河内長人に三十両渡す。新井は肥後人応接、寺田は西肥後周旋の予定。
*阿部=三池藩藩医阿部俊哲、下川=下川瀬兵衛
2/1 昼、久留米城下に入る。原田(hp)に宿泊。*筑前六宿街道)
2/2 伊東、大宰府(筑前)到着。天神(hp)参詣。梅林で和歌を2首詠む。その後、真木外記・水野渓雲斉等と面会。薩摩の吉田清左衛門宅に宿泊。
「こち吹かばと言ひし昔ぞゆかしけれ今を春べとにほう梅が香」「まろうどは雲の上のきみよもてなしにあるじ顔なるにほう梅園」
2/3 清水、真木に面会。永井の話をしたところ、大いに嫌疑を受けて恐怖して帰る。伊東、真木を再度訪問し、実を吐露するが、謀殺の気配を感じる。伊東、長州から来た使節とも応接。
2/4 伊東、真木・水野らと再度面会。新選組とは異論があって分離するとの説き、嫌疑を解く。再会を約して分かれる。長州から来た使節とも応接。
2/5 伊東、大宰府出立。久留米城下に一泊。
2/6 伊東、三池で新井・寺田と合流。渕上が嫌疑を受けて肥後での周旋成らず。
2/7 伊東、(肥後での?)周旋に尽力するが成らず。
2/8 同上。
2/9 伊東・新井・寺田、夜に肥後領ついたて(杖立?hp)に行く。間道が山道にあり、ひどく難渋する。大河内に面会し、長州の情勢を尋ねるが詳細は得られず。伊東、寺田の言行不一致に愛想をつかして和歌を2首詠む。
「機に臨み変に応ずと夕より朝に変はる言の葉ぞうき」「うつせみの身をも忘れて後にこそ尽す誠やあらはれもせむ」
2/10 伊東・新井・寺田、農家泊。
2/11 同上。
2/12 同上。伊東、辺地に思うことあって和歌を3首詠む。
「見はやさむ人さへなきに山桜何をたよりに咲きにほふらむ」「問ふごとに峯また峯に答ふなり幾日になりぬ山彦の声」「深山路に迷う旅寝は谷川の流れて出づる里に出づらむ」
2/13 伊東・新井・寺田、添田(福岡県田川郡hp)に着く。小倉の人と面談。古戦場を訪ねて歌を詠む。■「今ははや筒石弓の音絶えておぼろ影なる春の夜の月」
2/14 添田に滞在し、情勢を談じる。
2/15 伊東、田中・松室と日田英彦山(hp)に登って一首詠む。
■「九重を照らす影とぞ仰がるるいや彦山の春の夜の月」(刊行された「道中記」で秋となっているのは翻刻ミスです)
2/16 伊東・新井・寺田、日田(hp)で大いに嫌疑を受ける。伊東、悔しい心情を詠む。
■「真心の清きをいかにくらべ見ん日田の河原の春の夜の月」
2/17 新井・寺田、出立。伊東、窪田冶部右衛門に面会。嫌疑を受ける。
2/18 伊東、嫌疑を受けて日田に足止め。
2/19 同上。
2/20 同上。内海多次郎により嫌疑が氷解し、出立できることに
2/21 日田を出立。久留米の府中宿泊。(hp)
■「古への神もおはさば吹きはらへえみしが舟を荒き波間に」
2/22 伊東、佐賀着(hp)。新井に合流。友との再会に感激して一首詠む。*長崎街道を西へ
■「今さらに何をか物を思ふべき世にもうれしきますらをの友」
2/23 長崎街道の塚崎泊。武雄温泉(hp)に入る。新井、病が篤くなる。
2/24 長崎街道の大村泊(hp)。
2/25 長崎着。
2/26 鎮台能瀬大隈守(頼文)訪問。医師・郡斎の診察を受ける。*能勢は長崎奉行。
2/27 不明
2/28 不明
2/29 大隈守より300両受け取る。←長崎奉行からなぜ???公金???(大開国推進のための運動資金??・探求中)
2/30 新井、両鎮台訪問。*両奉行、すなわち能勢と徳永石見守昌新?あるいは奉行所?
3/1 同上。
3/2 同上。
3/3 同上。
<ヒロ>
◆京都に急がねばならないはずなのに、なんと長崎に9泊!!よっぽど気に入った様子。実は、この年の10月の大政奉還を受けて伊東の書いた新政府基本政策の建白書では、当時長崎にいたフルベッキからきいたという海外情勢分析が示され、早々に大開国で国論を統一して挙国一致体制を固める必要性が強調されている(こちら)。管理人は、伊東は長崎滞在中に、長崎奉行の洋学所や到遠館でフルベッキの話をきいたのではと推察している。このような新しい知識や物の見方に感動した伊東は、長崎を離れがたくて9泊もしたのかも?< 関連HP:早稲田大学-教育者大隈重信 早稲田大学-大隈をめぐる人々
◆誰もこれまで気づかなかったみたいだけれど、実は、この時期、会津藩公用人の山本覚馬(会津藩には珍しい開明派)が前年から長崎に滞在していた。新選組参謀だった伊東が覚馬に会うのはごく自然だと思う。会津という藩にこだわらず、日本国をみていた覚馬と伊東の大開国大強国論は方向が同じ。もし会っていれば意気投合したのでは??(覚馬にも影響を受けたかもしれない。ちなみに、覚馬は横井小楠を尊敬していた^^)。⇒覚馬の長崎時代の記録があれば・・・と探求中。
3/4 伊東・新井、京へ向けて長崎を出立 (海路?)
3/7 豊後西鶴到着。乗船。
3/8 暴風。
3/9 尾道上陸。
3/10 (朝廷より、伊東ら十数名、山陵奉行戸田大和守配下御陵衛士を拝命)
以下、リンク先は本館の「今日」に飛ぶのでブラウザーの「戻る」で戻ってきてくださいね。
3/11 伊東・新井、2ヶ月余の九州出張から大坂着。
3/12 伊東・新井、昼に淀川を下って帰京。夜に同志と会う。
3/13 伊東、近藤と分離策について会談。了承される。「意の如し」
3/14 伊東、京都町奉行大久保主膳、会津藩公用人野村左兵衛と分離策について会談。了承される。「また意の如し」
3/15 稲荷祭福。伊東、両長(近藤・土方)と一酌。
3/16 伊東、分離後の宿舎三条別館の交渉を日夜するがうまくいかず途方にくれる。「百計既に成りて此一事を欠く」
3/17 同上
3/18 宿舎の周旋
3/19 同上
3/20 伊東ら新選組分離(新選組屯所を出て)三条城安寺に泊まる
3/21 御陵衛士、五条善立時に移る
2001/2/28、2003/12/1, 2004/6/10, 6/25

参考:「伯父伊東甲子太郎武明」収録の九州行道中記

九州関係のHP:薩摩街道・道中案内記 長崎街道を歩く JR九州路線図

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