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毛 内 監 物 (有之助)

壮絶な死を遂げた津軽の名家出身衛士】毛内は津軽弘前藩300石の用人の次男に生まれた。衛士(新選組)には珍しい名家の出である。寡黙で書見を好んだという。尊王に専念するため脱藩し、江戸に出て学問教授をしているうちに伊東と出会ったようである。伊東の上京と前後して上京。新選組では文学師範(学問教授)を務めた。なんでも器用にできて「毛内の百人芸」といわれたともいう。衛士として新選組を離脱後は、建白書を伊東と共同執筆。学者肌で剣は得意ではなかったが、同志とともに暗殺された伊東の遺骸をひきとりにいって、油小路で新選組に包囲されたときには一歩もひかず、一説に<ここはおれがひきうける!大事な命だ、逃げてくれ!>と絶叫しながら闘い続けたという。なますのように斬られて戦死。享年33歳。

名前 毛内監物
出身 津軽弘前藩
生年 天保6(1835)年2月28日。津軽藩用人毛内有右衛門(300石)の次男として誕生。生年は戒光寺墓碑より逆算。
没年 慶応3(1867)年11月18日、油小路で戦死。享年33歳。墓所:京都戒光寺。
評判 ・「人となり剛強方正にして、其志操実に高風清月の如く、言語明亮、座臥共に度あり、弓馬の道を研窮し、和漢の経典を講習し、和歌漢文に精巧玄妙に、管弦の道をも学び、かたわら印章を彫刻し、風流の器工をよくせり。幼にして母を失い壮にして父に別る。而して哀傷より度を超え、且つ父の志を継で経済の道を琢磨せり・・・」津軽藩士下沢保躬『青』
・「身長五尺三寸、肉痩白く眼光炯々音吐清亮ナリ(痩せ型で色白、眼光は炯々と輝き、声は清涼である)。沈黙寡言、一室ニ端座シテ書ヲ読むヲ常トス」(「津軽藩勤王之事」『維新史料』)
・「毛内の百人芸といわれたくらいで、大して出来はしなかったが、馬にも乗れば槍も使う、何でもやった。一風変った面白い武士であった」(『新選組始末記』)←創作の可能性あり
詩歌 「ますらお雄の思ひたちにし旅なればあさ気の寒さなどいとふべき」
「こし方をしのぶ涙のふる郷を恋つつぬれば夢も結ばず」
年表 生い立ち 新選組 御陵衛士(準備中)
関連 逸話:母上の秘密兵器?」「女たち:母滝子の場合」

小史

誕生〜津軽藩時代

■津軽の名家出身
毛内監物は天保6年(1835)、奥州津軽藩で代々300石取りの毛内家当主有右衛門(当時用人)の次男として誕生した。津軽藩は戦国末期から近衛家と縁があり、幕末期の12代藩主承昭は近衛忠煕の6女と婚約中であった。また、毛内家は代々「勤王有右衛門」として藩内で有名な勤王家だったらしい。

父有右衛門は監物誕生前の天保4年(1833)、不調法を理由に役目を免じられ、知行270石を召し上げられた上、永世蟄居を命じられた。当時の藩主信順が愛妾を溺愛して藩政がおろそかになったのを諌めた「改革派」だったためだという。天保10年(1839)、信順が隠居して養子の順承が11代藩主に就き、2年後の天保12年(1841)、有右衛門は用人に再登用されて家禄も旧に復した。有右衛門は歌道・茶道・花道・音楽に秀で、篆刻では藩内右に出るものがなかったらしい。また、祖父茂幹(画号雲林)も絵画・地理・和漢学・茶道・華道・書道に造詣が深く、諸国を旅して紀行画を描いたという。

実母は執政堀家の女性だったといわれるが、監物が幼い頃に亡くなった。有右衛門が後妻に迎えたのが千石取り棟方十左衛門の長女滝子である。滝子の祖父は五代藩主の家老を務めたという名門である。また、滝子は津軽の女流名士として著名な才女で、特に歌人として高名だったというが、歌は雲林の弟に学び、書画・茶道・華道・琴を雲林に学んだという。また和漢の書籍を講究し密に武道の奥義を尋ねたという(実家の棟方氏は代々剣術の師範であり、伝流を伝授する家だったらしい)。千石取の大身の娘である滝子が300石で子どもが3人いる有右衛門に嫁いだ経緯は不明らしいが、有右衛門とは、雲林との師弟関係が縁で出会ったのかもしれない。

嘉永5年(1852)5月、父が病死し、兄平格(有人)が当主についた(監物18歳)。兄には幼い男子しかいなかったため、嗣子候補として部屋住を続けたという。実母を幼くして失い、また父も失った監物は残る滝子に孝養を尽くしていたそうで、国事のためとはいえ脱藩すれば孝養の道に欠けると、何度か脱藩を思いとどまったたという。

■教育
藩儒について漢学を学んだほか、時期不明だが、継母滝子の弟・棟方晴吉(棟方家当主)の教えをうけた。晴吉は文武両道で御旗奉行も務めた藩の重職である。勤王心が篤く、「山陵史」「新論」「常陸帯」「回天詩史」を熟読していた。後年、監物が政治活動を志すことになったのには晴吉の影響があるといわれている。

*津軽時代の監物及び毛内家については、高橋理子氏の研究(『新選組隊士列伝』・『新選組研究最前線上』)が詳しいので、興味のある方にはおすすめです。

脱藩・江戸へ

文久元(1861)年3月、監物(27歳)は脱藩した(『青』では万延元年3月18日、桜田門外の変に刺激されて脱藩となっている)。脱藩の朝、「黒石に行く」と言って家を出たという。(管理人はに『殉難遺章』に収録されている監物の詩歌「ますらお雄の思ひたちにし旅なればあさ気の寒さなどいとふべき」はこのときを詠んだものかもしれない・・・と想像している)。

監物は江戸ではある人の家に身を寄せたとされている。津軽では、脱藩した監物が頼る先は、寛政6年から3年間弘前に滞在し、滝子と親交の深かった江戸の女流歌人篠田雲鳳しかいないと考えられているようだ。また、監物は雲鳳の娘愛子と恋仲だったという話も伝わっているらしい。

江戸に出た監物は飯田町二合半坂の旗本永見貞之丞の子息に学問を教えた時期があったようである。のちに新選組隊士となった池田七三郎が、後年、子母沢寛に、永見の子息に剣術を教えたことがあり、時々監物と出会ったと語ったという。(文久3年(1863)の飯田町駿河台小川町絵図に永見貞之丞宅が確認できる。江戸城田安門から数分の位置。近所には歩兵屯所・講武所がある)。

■伊東と知り合う?
また、監物は伊東甲子太郎らと出会ったようである。監物らと交流のあった西村兼文の『新撰組始末記』によれば、元治元年(1866)に水戸天狗党が挙兵した時、伊東は応援に駆けつけようとして、久留米藩脱藩の古松簡治に「当地に残って有志を後日助けてほしい」と止められたということがあった。それ以来、伊東は篠原・服部・毛内らと、「今や憂国の士は京師に集り、尊攘の計画に尽力する時となった。我らもまた上京して応分の力を国家の為に致さん」と約していたという。

上京・新選組時代

■上京
監物の正確な上京時期は不明である。元治元年(1866)10月、伊東らは、藤堂平助の勧誘もあり、国事に尽す為、近藤勇の隊士募集に応じて、加盟希望者として江戸を出立した。このとき募集に応じた姓名は『会津藩庁記録』によって確認されるが、監物の名前は見られない。「秦林親日記」においても、新井忠雄・阿部十郎・藤堂平助らと並べて、京都で合流した(同志となった)メンバーに挙げられている。一緒には上京しなかったようだ。[関連:「逸話:母上の秘密兵器」]。監物の名は、伊東らの着京後まもない12月に作成されたとされる新選組の「行軍録」にもない。翌慶応元年(1867)3〜5月、伊東は土方歳三らと隊士募集に東下しているが、このときの新入隊士のリスト(5月作成)にもその名が見当たらない。しかし6月に作成されたと推定される島田魁の「英名録」には一番最後に名前が掲載されている。

■文学師範
慶応元年夏の編成で、監物は、伊東とともに文学師範に任命されたようである(この場合の文学は学問だろう)。

御陵衛士

■御陵衛士として新選組離脱
監物は他の同志同様、慶応3年3月に御陵衛士を拝命し、新選組から分離した。

■兵庫開港勅許に反対する建白書を起草
衛士時代の足跡はほとんど伝わっていないが、建白書を18〜19度提出し、そのたびに自分が出て行って丁寧に反復していたという。ただし、油小路事件後に新選組が草稿を奪った為、十数冊のうち一冊しか残らなかった。

「青雲志録」には、下沢の書写した毛内の草稿が収められている。兵庫開港勅許に反対する内容の建白書であり、慶応3年5月頃に書かれたものだと思われる。これが実際に提出されたものなのかどうか、単なる草稿なのか、伊東の筆が入っているものかどうかは不明。(「手記・詩歌」コーナーに、兵庫開港問題とあわせて解説をUPする予定)

■歌集「心の種」
明治元年に阿部十郎が津軽藩士葛巻行雄に話したところによると、阿部は監物と特に懇意にしており、滝子の歌なども度々見せてもらったという。翌明治2年に新井忠雄が津軽藩公用人赤石礼次郎に語ったところによると、監物が殊に秘蔵していた歌書が2部あったという。そのうちの一部は「心の種」という題である。赤石は「是の心の種は所謂尊皇攘夷、報国尽忠の心の種」だろうというと新井も同意したという。歌が詠まれた時期は不明だが、そのタイトルから衛士時代に詠まれたものかもしれない。残念ながら、同書は現在伝わっていない。

■戒光寺の堪念長老
御陵衛士拝命に尽力したとされる戒光寺(孝明天皇の御陵の設営された泉涌寺塔中)の湛念長老とも懇意にしていたようで、常々、「山陵衛士も相勤め候儀に付万一のこともこれあり候はばいづれ泉涌寺に葬りくれ候様」話していたという。

油小路事件

■油小路で戦死
慶応3年11月18日、伊東が近藤に呼び出された。その帰途、七条油小路で新選組に暗殺された。19日未明、囮として晒された遺体を引取りに出かけた毛内ら衛士は、伊東の遺体を駕籠に収容しようとしたところを、待ち伏せの新選組数十名に襲撃され激闘となった。藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した。

<史資料にみる毛内の最期>
◆「服部、毛内は門柱を背後として支戦す。(まず藤堂が斃れ)尋て毛内監物は北の溝際に切伏られ」(西村兼文『新撰組始末記』)

◆「そうして其死体の迎いに参りましたのは藤堂平助、鈴木三樹三郎、服部三郎兵衛、毛内有之助、加納道之助、富山弥兵衛と参りましたので、死骸を駕籠へ昇上げた所で、八方から取巻きまして撃って掛りましたから、そこで藤堂平助と毛内有之助両人で駕籠に載せるという所でございます。毛内は固より儒者でございまして、剣術は出来ませぬのでございますが、忽ち斬られて仕舞いました」(元御陵衛士阿部隆明談『史談会速記録』)ただし、阿部は当夜は狩にでかけていたのでこれは生き残りの同志からの伝聞) 

◆「しかも敵の伏兵40〜50人が前後左右からたちまち攻撃してきた。・・・、多勢の敵に前後左右より攻め囲まれ、味方7人のうちにおいて藤堂平助は奮戦してまず幣れ、毛内監物、これに次いで幣れ」(現場をとおりかかった元桑名藩士小山正武の談話『史談会速記録』)

◆「民家の門柱を背楯として、正面の敵をあしらえながら同志に向い「各々、お引き揚げ下さい、大切な命でござるぞ、後は拙者が拙者が・・・・・」と絶叫していたが、遂に乱刃の許になますの如く斬られ、東側の溝の中へのめり込んでしまった」(東京日日新聞社会部編「維新前後」『戊辰物語』より←「維新前後」の注釈に書かれている。巷説)

<遺体検視書>
「油小路通七条少し上ル東側へ寄果居候は・・・傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候」(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)

戒光寺へ改葬

監物の遺体は伊東・藤堂・服部の遺体とともに油小路に数日間晒された。その後、新選組隊士の菩提寺である光縁寺に仮葬されたが、鳥羽伏見戦争後、朝廷からの沙汰によって慶応4年2月13日、戒光寺に改葬された。はからずも監物の希望が叶ったわけである。

同年2月、葛巻が滝子に送った書簡によれば、旧年中に改葬するはずだったが、新選組に障りがあり、やむをえず延期になったという。改葬の際は、四人の傷を改め、武装束に着替えさせたが、仮葬から既に80日余も過ぎていたのに関らず、死骸はたった今討死したばかりのように見え、参列者は「勇者の一念」だと語り合ったという。葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出された。時節柄多忙であるからか、墓碑はすぐには建立できず、埋葬したままにしなくてはならないので、その分引導は特別に手厚く、百ヶ日(2月28日)にも別途供養するようにとの指示があったそうだ。戒光寺長老堪念は葛巻に「死に冥加と申すはこの事か」と述べたという。

なお、監物の戒名は「覚知院剱冷居士」だというが、明治2年に同志の手によって建立された墓碑には「毛内監物平良胤三十三奥州弘前之人武明没之日於同書戦死」とだけ記されている。

参考資料:「毛内青雲志録」(『新選組研究最前線下』)、『史談会速記録』、『殉難録稿』
『高台寺党の人びと』・『新選組隊士列伝』・『新選組研究最前線上』
「新選組聞書 稗田利八翁思出話(『新選組物語』)」・『戊辰物語』・『志士詩歌集』


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