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谷中墓地
-新井忠雄と妻小静の墓所-



新井の墓碑は高さ2メートルほどもある。明治になって成功した新井らしい立派な墓である。墓碑の正面には「従6位勲5等 新井一業 妻小静之墓 正5位 安藤信勇書」と記されている。安藤信勇は新井の出身藩・磐城藩の最後の藩主である。墓碑の裏には新井の略伝が刻まれている。

油小路事件後、何も知らずに江戸から帰ってくる新井を案じて乞食に変装して京都を脱出して急を報せたり、偽官軍事件に連座して捕えられた新井の無実を訴え、「夫の代わりに私の命を」と訴えた奥さん、小静の名が新井の隣に刻まれているのが個人的には嬉しい。

墓碑の前の花器は酒瓶を象り、手水鉢?は盃を象っている。酒好きの新井の面目躍如!(衛士は首領の伊東といい、三樹といい、酒好きが多い^^)お参りにいったとき、墓前に日本酒を捧げた。みんなでこころゆくまで飲んでください・・・と(お供えした後は持って帰りました)。


新井忠雄:頑固に筋を通す熱いオトコ
新井忠雄は奥州磐城平藩士の次男で天保6(1835)年生まれ。新選組には伊東と相前後して入隊し、剣術師範・監察などを務めた。いつか伊東に共鳴して同志となる。隊費不積算で河合喜三郎が斬首されたとき、潔白を主張して監察による調べを望んだだ彼に、土方歳三が「未練」と却下したが、新井は「役目だから」と調べ続けたという逸話がある。三条制札事件では監察だったが、「酒を飲み、しかも自分が先頭に立って闘ったので、誰がどう闘ったかわからない。平等に報償を渡してほしい」と正直に報告。

油小路当日は江戸に同志募集に出かけていて不在。何も知らずに月真院に帰って新選組に捕まってはと案ずる妻が乞食に変装して迎えに行く。

鳥羽伏見後は鳥羽伏見の戦い後、衛士残党と挙兵し、相楽総三らと赤報隊を結成。相楽と袂を分かって帰京後に偽官軍事件で投獄される。このとき理不尽だと大いに怒り、脱獄するとか警備兵を残らず斬り殺すとかいきまいて篠原・三樹になだめられるひとまくも。一方、3名が投獄されて大津に移されたのを聞いた新井の妻小静と篠原の妻萩野は、愕然とし、彼らの助命に東奔西走した。その苦心に耐えず、思い余った彼女たちは、大津まで出向き、「夫に代わってわたしたちに死をお賜りください」と嘆願し、阿州陣屋に駈け込もうとしたそうだ。

釈放後は新政府軍一員として越後で戦って軍巧を上げ、50石の報償を得る。明治になって司法省に勤め、従6位に。57歳で死亡。
新井についてもっと詳しく知りたい方はこちら
最終更新日:6.30.2002

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