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新井忠雄(俊蔵、陸之助)


名前 新井忠雄平一業
出身 奥州磐城平藩。藩士山崎覚兵衛次男。母・新井氏。
生年 天保6(1835)←伊東と同年
没年 明治24(1901)。享年57歳。墓所:東京都 谷中墓地乙3−7 (墓碑)
詩歌 「諸共に結びあわせし玉の緒もまた絶えやらで残る身のうさ」(青雲志録)
年表 生い立ち 新選組・御陵衛士時代 赤報隊・戊辰戦争 明治 主要事件は本館「今日の幕末京都」等とリンク。
その他 伊東の和歌において「親しき友」と記されている。

【小史:頑固に筋を通す熱いオトコ】

新選組加盟まで

新井は磐城平藩士山崎覚兵衛の次男として誕生したが、母の実家を継いで新井姓を名乗った。嘉永5年(1852)、志を立てて江戸へ出た(18歳)。 翌嘉永6年(1853)米国提督のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀へ来航し、日本は開国への道を歩み始めている。

新選組時代

元治元年(1864)末頃、のちの御陵衛士同志伊東甲子太郎らと相前後して、新選組入隊のため上京した(30歳)。新井が江戸にいた頃から伊東と知り合っていたかどうかは定かではない。伊東と同時に上京したメンバーの遺談には江戸時代の新井との逸話は出てこないからである。

■監察兼剣術師範
新井は、慶応元年(1865)夏の編成で、監察兼剣術師範になっている。

■長州訊問使に随行
慶応元年(1865)11月、禁門の変に関する長州訊問使に新選組局長近藤勇が随行した際、新井も伊東らとともに広島へ出張した。このときはすでに伊東の同志だったのかもしれないし、このときに行動をともにした伊東に共鳴したのかもしれない。

■三条制札事件
翌慶応2年(1866)9月、三条に設置された長州藩の朝敵だと記した制札を土佐藩士・浪士が外そうとし、警護の新選組と乱闘になった(三条制札事件)。このとき、新井は監察として出動しており、新選組隊士今川裕次郎とともに土佐藩宮川助五郎に重傷を負わせた。今川は宮川の首を掻こうとしたが、新井は止めて捕縛させたという。ただし、「(長時間の待機である上、寒かったので)酒を飲み、しかも自分が先頭に立って闘ったので、誰がどう闘ったかわからない」という状態だったらしい。「平等に報償を渡してほしい」と報告している。(新井の活躍?の詳細は本館の「三条制札事件」)。この事件の功で、12月には会津藩より報奨金20両が授けられた。

■河合喜三郎
なお、同年(1866)2月、近藤・伊東が広島に出張中、隊費不積算で河合喜三郎が斬首されるという事件が起った。河合は、潔白を主張して監察による調べを望んだというが、土方歳三が「未練」と却下した。しかし、新井は「役目だから」と調べ続けたという逸話(『新選組物語』)がある。真偽は不明だが、実話だとすれば、一徹な新井らしいエピソードだと思う。

新選組分離へ 九州遊説

■伊東と九州遊説
翌慶応3年(1867)1月、新井は伊東とともに九州へ向った。このとき、彼らは新選組分離を決意しており、大宰府滞在の尊攘急進派に理解を得るための遊説の旅であった。新井が伊東に信頼されていたようだ。伊東は、このときの道中記や和歌で、新井を「(親しき)友」と記していることからも、二人の関係は推し量られよう(関連:「九州行道中記」を読む)。

■淵上郁太郎暗殺について
伊東と新井が九州にいる間の2月18日に淵上郁太郎が柳川藩山中村で暗殺されるという事件が起った。暗殺犯は不明だが、これを伊東とする説がある(「真木和泉守遺文」添付の年表(大正2年)が唯一の根拠のようだ)。しかし、伊東は淵上が暗殺された前後の16〜18日には日田の代官窪田治右衛門の嫌疑をうけて足止めをくったと本人の道中記に記されており、柳川で淵上を殺害することは物理的に無理である。それではと、最近では、新井を実行犯ではないかと疑う人もいるようである。確かに新井は2月6日に三池で伊東と別れ、22日に佐賀で伊東と再会するまでの16日間は別行動をとっており、20日に大宰府で水野丹後(渓雲斎)・真木外記訪れたという以外、足取りは明確ではない。だが、地域の伝承では数名〜10名くらいが淵上を襲ったということになっており、新井実行犯説とは相容れない。なお、淵上暗殺犯には広田彦麿一派説もある。御陵衛士を長年研究された市居浩一氏が渕上家の子孫に確認したところ、渕上家では代々、広田説だそうである。明治44年に発行された『報効志士人名録』(史談会編)の淵上伝にも「(柳川藩の)窪田彦丸等5、6人の襲う所となり殺害せらる」とあり、「首は大宰府に送り、屍は同村土手に埋む。数日を経て遺族屍を収めて郷里に」埋葬すると掲載されているそうである。

御陵衛士

伊東と新井は同年3月12日に帰京した。約50日ぶりである。両者が九州遊説中、他の同志の尽力で御陵衛士を拝命しており、伊東と近藤・土方の話し合いにより、円満に分離できることになった。彼らは20日に新選組を出て城安寺に宿泊し(こちら)、翌21日に五条善立寺に移った。

■三度、大宰府へ
同年5月、新井は再び九州に向かい、大宰府滞在の激派公卿・警護の志士に面会して新選組分離を報告した。

8月、今度は、伊東とともに大宰府へ向い、真木外記らと面談している。

油小路事件

慶応3年11月18日の夜から19日未明にかけて、近藤に呼び出された伊東が新選組に暗殺され(こちら)、油小路に放置された遺体を引取りにいった同志が待ち伏せの新選組多数に包囲されて激闘となり、服部三郎兵衛・毛内監物が戦死した(こちら)。この油小路事件当日、新井は京都を不在にしていた。わずか3日前の15日に同志募集のため江戸に向って旅立ったばかりだったからである。新選組で剣術師範も務めた新井が居合わせれば、

■乞食に身をやつした妻
江戸を出立して帰京途中、新井は、四日市で乞食に身をやつした妻小静に出会う。小静は、新井が何もしらずに月真院に帰って新選組に捕まってはと案じ、ひそかに京都を脱出して新井を探していたのである。事件を聞いた新井は妻を先に京都に帰らせ、自分は回り道をして、12月25日に泉涌寺(孝明天皇御陵のある皇室菩提寺)の裏山から入京。近くに住む志士井上謙蔵から生き残りの同志が伏見の薩摩藩邸に潜伏していると聞かされ、伏見に向って合流した。

赤報隊・戊辰戦争

■赤報隊
慶応4年1月の鳥羽伏見の戦では、同志とともに薩摩藩一番隊として戦った。1月6日、前侍従綾野小路俊実(新政府参与大原重徳の息子)を奉じて同志とともに京都を脱した。8日、相楽総三らと合流して松尾山で挙兵し、赤報隊を結成。(赤報隊二番隊)。新政府からの帰還命令を無視して進軍する相楽の一番隊と袂を分かって帰京。

■投獄され激怒
帰京してまもなく、三樹・篠原・新井(なぜか旧御陵衛士の赤報隊幹部のみ)は政府に出頭を命じられ、偽官軍事件の嫌疑を受けて投獄される。新井は、このとき理不尽だと大いに怒り、脱獄するとか警備兵を残らず斬り殺すとか息まいて篠原・三樹になだめられるひとまくも。

■「夫に代わってわたし達に死を」
一方、三樹・新井・篠原の3名が投獄されて大津の阿波藩陣屋に移されたのを聞いた新井の妻小静と篠原の妻萩野は、愕然とし、彼らの助命に東奔西走した。その苦心に耐えず、思い余った彼女たちは、大津まで出向き、「夫に代わってわたしたちに死をお賜りください」と嘆願し、阿波藩陣屋に駈け込もうとしたという。

薩摩藩遠武の尽力で三樹・篠原・新井の嫌疑は晴れ、3月7日に釈放された。釈放されたとき、陣屋で食事が出され、三樹・篠原は喫したが、新井は「一飯も食さず」だった。しかし、薩摩藩預かりとなり、赤報隊との合流はできなかった。14日には油小路で横死した伊東ら4名の遺体が孝明天皇の御陵のある泉湧寺の塔頭戒光寺に改葬された。大名のような葬儀だったという。赤報隊(阿部)は徴兵七番隊として、5月に京都を出立したが、篠原と新井とは京都に留まっている。

■戊辰戦争で軍功
同年6月15日、新井は篠原とともに新政府軍(会津征討軍越後口派遣軍)軍曹に任命され、転戦。越後軍には、三条制札事件で新井が助けた宮川を始め、刃を交えた土佐藩士3名が新井と同じ軍曹として従軍していた。

明治時代

明治2年、戊辰戦争で軍巧を上げた新井は、永世50石の報償を得た。弾正台(検察庁)京都支庁に勤め、その間、戒光寺墓地の御陵衛士同志の墓碑建立に尽力した。戊辰戦争で没した従者高村久蔵の墓碑も同所に建立。

■大村益次郎暗殺犯死刑停止事件

明治3年、新井は、上司海江田信義の大村益次郎暗殺犯死刑停止事件に連座して免職となる。復職には4年の歳月を要した。司法省は明治19年に退職。

明治22年に従6位に叙せられたが、24年、57歳で死亡。墓所に酒瓶を象った花器と盃を象った手水鉢?があるのは酒飲みの面目躍如!

参考資料:年表をごらんください。

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