祖父が退職したのは明治十八年であった。そしてその年石岡のここに居を構えたのである。XXX番地とあるが、今はXXX番地である。私が五-六才になった頃は、既に三十年を経過していた訳である。私は一人子であったし、近所は御屋敷町で隣同士でも比較的つき合いが淡かった。下町の方とは大分違ったふん囲気であった。それに私の屋敷が広く、六○○坪近くもあって、裏にはマテバシイの二抱え程もある大樹がつやつやしい葉を繁らせていて、秋には砲弾型の実が沢山落ちこぼれているのであった。又屋敷の西側の通路にモミジ、エンジュ、ユヅリハ、山桜、松等が立ち並んでいた。 祖父は「朝日に匂ふ山桜かな」で桜が好きであったようだ。この他にも染井吉野、彼岸桜等があった。私は木登りがこよなく好きだ。苦心を重ねて登れるところまで登り下を眺めてはいつまでもすかすかしい気分にひたって居るのが何とも云へないいい気分なのである。然し、今まであげたような樹は枝下の非常に長い樹で木登りには不向きであった。その中でマテバシイは大樹ではあるが手頃のところから枝分れしていて、登るのには都合がよかった。うっそうとして濃緑の樹冠の中へ入ってゆく気分は又格別である。葉が混んでいて眺めはきかないが濃緑の懐ろにいただかれて、しばらくの時を過すだけで満足だった。この樹は登るのに夏が一番だった。樹の中は涼しいので時折シマヘビ等が樹の上にいることもあったが、私は追い払って登っていった。 あと登りやすい樹は柿の樹である。屋敷の中に十本程の柿の木があった。禅寺丸、甘百月、アマシブ(これは甘御所か)それから名の知れない甘柿渋柿が二本程あって、これは続にナガラと云っていた。秋末の頃、長竹の先を割って割はさみといふのを作って小枝ごとねじって折り静かに下ろしてくるのである。これを母が夜なべにむいて■梠の葉でヘタの直ぐ上の小枝へ二個づつくくり軒下の物干竿へ見事にかけ干した。私はこの干柿は余り好きでなかった。こくのあるような甘味が好きになれなかったのである。このナガラを収穫する頃になると、早く熟れて真っ赤な熟柿になってぶら下るのがある。それを目あてに、椋鳥ヒヨ鳥目白等が来て大騒ぎしながらつついている光影がよく見られる。その鳥どもの騒ぎを見ているのも好きであった。柿の木と云っても登りやすい木と登り難い木があった。自然登り良い木へ登って遊ぶことが多かった。秋の始じめの頃から、毎日少し空色の変化の見られる頃が一番楽しみであった。手のとどくところの実をむしっては、ためしてみて禅寺丸等は甘くなるのが随分早くてもう九月末近くなると可成り甘かった。熟した頃出入り職人等が来て大菰で何杯となく運んでいった。柿の木もマテバシイも枝がもろくよほど注意しないと折れ易いので危険であるがそのスリルが又好きなのであった。 近来はこの辺で蝉の鳴き声を殆んど聞いた事がない。人為的の公害なのであろうが自然が破壊されてゆく事は淋しい事である。自然をこくふくしたつもりの人間がやがてほろびてゆく時代がくるのであろう。屋敷の中は木が多かったのであらゆる蝉が来て夏中やかましい程鳴いていた。蝉は夏中の私のよい遊び相手であった。 又屋敷の区切区切に茶の樹が長く植えてあって、八十八夜の茶摘頃になると何人も人手が入って製茶したようだが、私がおぼえでは一回位使ったろうか、ほいろの真中頃がこげ茶になっているところへ日本紙を何枚も何枚ものり刷毛で貼っている祖母を一度見たような気もする。生茶で約二十貫位は摘めたので一年間飲むお茶は全部自家用であった。近くの懇意の茶職人がうでによりをかけて作って呉れたのと家の水が非常によい水であったので、お茶の味は自慢であった。 ・・・<以下略by管理人> |
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