「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記  

贈従五位伊東甲子太郎之事 (昭和10年頃)

関西の所縁の方が所蔵しておられる資料です。どのような経緯で入手されたかは伝わっていないそうです。伊東の事績自体は事実誤認が多いのですが、昭和10年3月に戒光寺さんに墓所について照会した際の返書が見取り図とともに収録されています。見取り図は現在のものと変わりませんが、返書からは、この当時、墓所は京都府が管理しており、神式で祀られていたことがわかります。

伊東甲子太郎ハ幼名大蔵後ち摂津と改む。天保七年某月日茨城県新治郡志筑村士族鈴木某の長子に生れ、成長して江戸に出で、伊東某の養子となる。性豪胆にして撃剣を善くし、又た和歌に巧みなり。甲子太郎夙に勤王の大志を抱き、曽て新選組に投ず。隊長近藤勇大に喜び挙げて参謀となりしが、甲子太郎は勇と議論の合わざるが為に同志十数人を率いて遂に新選組を脱せり。

元治元年十一月、甲子太郎は事急なるを以て馳せて京都に上り、各藩志士の間を往来して大に画策する所あり。初め五條橋本の長円寺に屯せしが、尋て東山高台寺末の月真院に居を移し、高台寺組と称したり。

甲子太郎感ずる所あり。専ら勤王の至誠を尽さんと欲し、泉湧寺の長老湛念和尚を介して山陵奉行戸田大和守に謁し、孝明天皇御陵の衛士たらん事を請い、許されて衛士頭となり、名を摂津と改めたり。

時恰も尊王佐幕の議論、国内到る処に沸騰し、畏れ多くも輦轂(れんこく)の下は殺気満天化して腥風(しょうふう)血雨の巷となりぬ。而も新選組の隊長近藤勇は三百年来恩顧を受ける徳川幕府の為に忠義を尽すは此時なりと、部下を率いて京都に上り、勤王志士を暗殺すること恰も牛馬を屠るが如く、各藩地名の志士は多くが彼が凶刃に斃れたり。

偶に慶応三年十一月十八日、勇は醒ヶ井の妾宅に在りて使を伊東摂津に遣わして曰く、緊急議事あり、乞う速かに来れと。摂津乃ち行かんとす。同志諌めて曰く、彼れに害心あり、行くべからずと。摂津曰く、彼れに害心あるを知りて行かざれば、我れ卑怯なりと。乃ち行けど、勇喜び迎えて歓待尽せり。摂津、痛飲日暮に及び、酔歩跚として妾宅を辞し、帰途油小路に達するや、待ち説けたる勇の部下の為に忽ち斬殺せられたり。摂津享年三十二(或は三十五という)。

凶報が高台寺に達するや摂津の部下十数名輿を■して現場に至り、遺骸を収めんとすれば、伏兵周囲の商店より躍り出て、忽ち乱闘の活劇を演じ、彼我共に死傷あり。其侭遺骸を棄てて還る。再び到れば、再び起る斯々すること数次、遺骸を街頭に晒すこと殆んど三日に亙りしとは、実に以て当時の騒乱状態を想う可し。摂津以下の遺骸は泉涌寺の塔頭戒光院に葬らる。(戒光寺在京都市東山区今熊野字泉山)

爾来、春風秋雨両五十余年■域草流れて復た弔客の来り、訪うものなかりしが、偶に大正七年十一月十八日、摂津、生前勤王の至誠畏くも
天聴に達し、特音を以て従五位を追贈せられしは、死後の光栄亦た余りありと謂うべし。

  花恨月愁五十年、墓門寂寞絶香煙
  忠魂今日応瞑目 忽見鳳章降白天  


京都泉山戒光寺、照会の辺翰及墓地図(原文のママ)

伊東甲子太郎墓所周囲は昨夏栗林を用いて新しく囲垣を造らる。白木にて接木目を、銅版にて打■り立派なり。


(手書きの墓所の見取り図、伊東の墓の正面、側面図)


神式にて祀らる。但し、祭霊者は何人の施行するや、当院には不明あり。

府庫の方より、時々掃除せらるる模様、ソレも判明せず。墓所は以前戒光寺の墓所の一部を買収せられ寺とは交■を残ちおれり。

戒光寺境内と墓所とは次の図の如く離れ在り。

随て参詣者も祭祀の人も逢うことなし。但し戒光寺側として檀家墓参の途中、通過の折、何時も立派に掃除され祀りあるを見る

昭和十年三月十四日  戒光寺執事

(2018/1/4 (2015年4月にブログにUpした記事の転載))


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