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1. 孝明天皇 (2002/10/12)

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる

「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ」

「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」


◆松平容保が終生肌身離さなかった御製 (2002/10/12)
旧会津藩主松平容保は、小さな竹筒を首から提げて終生肌身離さなず、その中身を誰にもみせなかったそうです。容保が何よりも大切にしたもの・・・明治26年に彼が亡くなったとき、遺族が開けた竹筒には、孝明天皇から授けられた宸翰(天皇直筆の書簡)と御製(天皇の和歌)が入っていました。それは、禁門の政変(8月18日の政変)時の容保の忠誠を称揚するものでした。


禁門の政変は長州藩による攘夷親征の動きに対抗して、公武合体派の会津・薩摩・中川宮が提携して起こしたもので、その結果、長州系激派公卿、及び長州藩が京都政界を追われました。この政変は、かねてから激派により意思が矯められることに不満を感じており、親征にも不賛成であった孝明天皇の承認の下に行われました。(参照:「開国開城」「今日の幕末京都」)

宸翰と御製は、政変からまもない10月9日夜、二条斉敬右大臣から松平容保へ直接渡されました。二条が同時に伝えた勅旨によれば、天皇はかねてから政変時の容保の指揮を賞揚したく思っていましたが、容保だけを賞揚したのでは物議を生じ、容保も心安らかではないだろうと考え、ひそかに宸翰と御製を授けたのでした。

宸翰にはこう認められています。

堂上以下、暴論を疎(つら)ねて、不正の処置、増長に付、痛心堪え難く、内命を下せしのところ、速やかに領掌し、憂患掃攘、(天皇の)存念を貫徹の段、全く其方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱、これを遣わすもの也」(『七年史』より。読み下しbyヒロ)

その箱に、御製が二首収められていました。

たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこひてよめる

「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ」
「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」

容保は感泣して受取り、身に余る光栄を謝したそうです。


相田泰三『松平容保公伝』によれば、同一の勅語に「忠誠」の文字が二度あるのは、空前絶後のことなのだそうです。歌からは、容保の天皇が容保の忠誠に感じ入り、公武一和実現のパートナーとして深く信頼している様子がうかがえると思います。政変後、権力から遠ざけられた「勤王」派の人々は容保を天皇の意思を枉げる存在として指弾しますが、その容保は当の天皇には意思を実現する存在として信頼されており、逆に「勤王」派こそが「暴論、不正、増長」と排除すべき対象とみなされていたのです(天皇のためにと命を賭けていた純粋な「志士」たちには気の毒な話です)。「勤王」VS「佐幕」という色分けのなんとあやういことでしょう・・・。

容保の忠誠を称揚し、深く依頼した孝明天皇は慶応2年末に死去し、戊辰戦争で敗者となった容保と会津藩は「朝敵」とされました。しかし、維新後の容保は旧幕時代のことは語らず、自己弁護もしなかったそうです。自らの不徳により多数の藩士が命を落とし、家族は離散し、辛苦をなめたたと自責にかられていたともいうので、ことさら語れなかったのかもしれません。肌身離さずにいた宸翰と御製はそんな容保の支えだったのだと思います。

なお、容保の謚は忠誠(まさね)霊神といいます。宗族の人々が相談して容保に最もふさわしいものを選んだそうですが、謚の決定前に、御製を知ったそうです。そのはしがきに「忠誠」の文字があるのをみて、孝明天皇と宗族の容保に対する見方が暗合したことに気づき、この謚は先帝より賜ったも同然であると歓びあったそうです。



【ヒロの解釈】(あくまで、素人の私訳です^^;)。

「やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄えむ」

和らいでもなお勇猛な(武士の)心も、実は(天皇である自分の心と)一つの根から幹別れして生え出た相生の松のように、根は同じであり、深く結びついている。相生の松が落葉することなく、いつまでも共に緑であるように、われわれの深い絆がかわることはなく、神州も長く栄えよう。
【冷や汗語釈】やはらく「」=接助詞の逆接仮定条件。たけき心「」=係助詞。(最初、〜も〜もという並列かとも考えたが、「やはらく」(連体形)と「たけき心」(名詞)で訳が並列にならないのでとらなかった)。なお、「猛き」は『京都守護職始末』(明治44年版)では「武き」とされている。「相生の松」=一つの根から雌雄の幹が生え分かれる珍しい松。しかも一つは赤松で一つは黒松。また、松は常緑樹である。そこから、歌の世界では、(男女が)固く結ばれ長く栄えることを意味するようになった。ここでは、勇猛な容保の心と天皇の心は別物のようにみえるが、その根っこは同じ志(治世の繁栄・公武一和等)なのである・・・というような意味になると考えた。また、「松の・・・栄えむ」は、容保と孝明天皇の個人的信頼の発展より、むしろそれの帰結するところである(公武一和の実現による)治世の栄えと考えた。ちなみに、「相生の松」を題材にとった有名な謡曲「高砂」では、松はいつも変らず緑であるように今の治世もこれまでとかわりなく栄えることを寿ぐめでたいものだ・・・とうたわれている。
「武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて」

武士(=容保)と心を合わせれば、(さらに容保・天皇の願い通り公武の一和同心が実現すれば)、どんな困難(国難)にもきっと打ち勝つことができるだろう。そのことは代々の御世への思い出となろう
【冷や汗語釈】「武士」=容保、また公武の「武」である徳川幕府と解釈。心あわし「」=接助詞の仮定条件。つらぬき「」=完了の助動詞「つ」の未然形。「まし」=反実仮想。これまでは激派という障害があって心を合わせることはできなかったが、これからこそという気持ちが込められていると解釈して反実仮想をとった。「おもひて」=『京都守護職始末』(明治44年版)では思出。最後は体言止めで気持ちが省略されているが、力を合わせて国難を打ち破ったことは代々伝えられていくだろう・・・そう願っている・・というような気持ちではないかととった。

解釈・語釈にあきらかな間違いを見出された場合は、是非ご指摘くださいませ。
こんな解釈もあるのでは?というコメントも大歓迎♪


<参考>『京都守護職始末』、『七年史』、『松平容保公伝』、『幕末の会津藩』

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