9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■禁門の政変 文久3年8月18日、尊攘急進派/長州による攘夷親征の動きに対抗して、公武合体派の会薩・中川宮らが提携して、天皇の承認のもと、朝廷政変を決行しました。これにより、急進派公卿及び長州藩は京都政界を追われることになりました。 (1)クーデター側の動き 前17日、朝廷内公武合体派である中川宮、近衛忠煕(前関白)・忠房父子、二条斉敬(右大臣)、徳大寺公純内大臣は、ついに翌18日子の半刻(丑の刻説あり)に参内・謁見して「非常の大議」を行う決意を固めました。その時に守護職・所司代も兵を率いて参内すること、また中川宮らの護衛として、会津藩・薩摩藩士がつくことも決まりました。いよいよ政変の決行です。(前日の動きはこちら) 17日深夜から18日未明(子の後刻:深夜1時頃以降)にかけて、中川宮・近衛前関白父子・二条斉敬右大臣・徳大寺公純内大臣ら、及び守護職松平容保・所司代稲葉正邦(淀藩主:何のための召命か知らなかったという)が密かに参内しました。前後して外講九門(豆知識:御所の外講九門・内講六門)はすべて閉鎖され、内講六門は守護職・所司代・薩摩藩の兵力によって固められました。召命のない者は関白・重職であろうと一切の参内を許さず(公卿の名前に「正」「暴」の印をつけたリストが配布され、「正」の印のついた者だけが、唐門(公家門)から参内が許されました)、備前・米沢・因幡・阿波以外の藩兵の九門内(築地)立ち入りも禁じられました。七ツ頃(午前4時頃)、兵力配置が完了した合図として九門内凝花洞で大砲が一発鳴らされました。卯刻(午前6時頃)には、姉小路公知暗殺事件がきっかけで5月26日以来乾門(外講九門の西側門の一つ)警備を免じられていた薩摩藩に対し、「是迄通り警衛」せよとの沙汰が下りました。 また、在京諸大名に即時参内が命じられました。五ツ過ぎ(午前8時過ぎ)から、土佐藩の山内兵之助(前藩主容堂の弟)をはじめとして、米沢藩主上杉斉憲・備前藩主池田茂政・大州藩主加藤秦秋・因幡支藩鹿奴藩主池田仲建らが続々と参内しました。 やがて、参集した公卿・藩主を集めた御前会議が開かれ、中川宮は親征・行幸延期及び三條実美らの禁足・他人面会禁止を進言しました(「このごろ、議奏ならびに国事掛の輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざることを御沙汰の由に申し候こと少なからず、なかんずく御親征、行幸などのことにいたりては、即今、いまだ機会いたらずとおぼしめされ候を矯めて(=ゆがめて)、叡慮の趣に施行候段、逆鱗少なからず。攘夷の叡慮は動き給わざるも、行幸はしばらく御延引あそばされ候。いったい右様の過激、粗暴の所業あるは、まったく議奏ならびに国事掛の輩が、長州の容易ならざる企てに同意し、聖上(=天皇)へ迫り奉り候は不忠のいたりにつき、三条中納言(=実美)始め、おって取り調べあいなるべく、まず禁足し、他人との面会はとめられ候」←『七年史』より、読み下しbyヒロ) 結果、1)大和行幸/親征の延期、2)三条実美ら議奏・伝奏・国事御用掛20余人(=急進派公卿)の参内停止・他人面会禁止、3)国事参政・国事寄人(急進派公卿がほとんど)の役職廃止、4)議奏の更迭の勅が下されました。 その後、一同は御前を退き、中川宮・守護職松平容保・所司代稲葉正邦・米沢藩主上杉斉憲・備前藩主池田茂政らを中心に事態収拾策を会議し、長州藩の堺町門(=九門の南側)守衛罷免及び藩兵の京都追放を決定しました。ここまで決めた上で、ようやく関白鷹司輔熙を参内させることにしました。関白が召命によって参内したのは、四ツ頃(午前10時頃)だったそうです。 こうして、長州藩及び尊攘急進派公卿の勢力は朝廷から一掃されることになりました。 *阿波藩世子蜂須賀茂韶の参内は遅れて八ツ頃(午後3時頃)になりましたが、これは途中、親戚筋の関白鷹司輔熙邸に立ち寄り、長州藩士らに抑留されたためでした。また、因幡藩主池田慶徳は、夕七ツ(午後4時頃)ようやく参内しました。前17日夜、同藩急進派が、藩主の勤王の志を阻害しているとして、藩要路を襲撃・殺害するという内訌事件があり、その処置に追われたためでした(*「余話」に準備中)。(孝明天皇は、当初、<会津と因幡に処理させよ>との内勅を下していたほどだったのに・・・) (2)長州・急進派公卿の動き 長州藩・急進派公卿ともに政変は予期していませんでした。非常事態に気づいた彼らは堺町門東の鷹司邸に集まりました。長州藩等の武装兵は隊形を組んで堺町門警備の薩摩兵・応援の会津兵と対峙し、いまにも戦が始まるような形勢となりました・・・。
鷹司邸における騒擾は、宮中にも伝えられました。召命によって参内した鷹司関白は、長州藩兵は3万人もおり、これを激させることは得策ではないと述べて朝議を覆そうとしました。米沢藩主上杉斉憲や、遅れて参内した阿波藩世子蜂須賀茂韶・因幡藩主池田慶徳も、「長州へ少々荷担」(『玉里島津家史料』)し、堺町門警衛を免ずるのはよくないなど主張しましたが、朝議は変わりませんでした。 九ツ半(13時頃)、長州藩を慰撫するために柳原光愛勅使として鷹司邸に出向きました。柳原は、天皇の攘夷の意思は変わらず、長州藩も頼みにしているので、暴発せぬようにとの勅諚を伝え(「攘夷御親征の儀は、兼々の叡慮在らせられ候えども、行幸等の儀に付ては、粗暴の処置之有り候段、御取調べ在らせられ候。攘夷の儀は何處までも叡慮御確乎在らせられ候事故、長州に於て益尽力之有り候。是迄長州効力朝家候に付き、人心も振興の事、向後、弥御依頼思召され候間、忠節相尽すべき候。藩中多人数の内故、最も鎮撫加え、決して心得違い之無き様、益勤王忠力竭すべき旨仰せ下され候」←『修訂防長回天史』より、読み下しby管理人)、さらに藩兵を鷹司邸から引き上げるよう命じました。長州藩は勅諚に請書を出しましたが、兵の引き上げについては議論が決せず、薩摩・会津兵との一触即発状態のにらみあいは依然として続きました。次いで、清水谷公正が勅使として鷹司邸に趣、三条実美らに対して、参内・他人面会禁止の勅命に従って引き取るよう命じました。夕刻、三条実美らは長州藩士・親兵・浪士らとともに鷹司邸を退去することを決めました。堺町門警衛については、長州が引く一方で、対峙していた薩摩・会津も引くことで合意し、代わって淀藩(所司代)が警衛につくことになりました。 鷹司邸を退去した一行は洛東の妙法院に向かいました。長州・清末・岩国の藩兵、及び親兵・浪士を含め、総勢約2,600人だったといいます。妙法院では、善後策が話し合われました。主だった参加者は、三条実美、三条西季知、豊岡随資、滋野井実在、東園基敬、東久世通喜、四条隆、錦小路頼徳、壬生基修、烏丸光徳、沢宣嘉の公卿のほか、毛利元純(長州支藩清末藩主)、吉川経幹(岩国藩主)、益田右衛門介(長州藩家老)、久坂玄瑞、佐々木男也、真木和泉、渕上郁太郎、土方久元、宮部鼎蔵、美玉三兵らでした。席上、真木は追討使を待つより、河内の金剛山か摂津の摩耶山で義兵を挙げることを主張しましたが、長州藩士は、諸卿とともに国元に帰ることを主張しました。柳原から伝えられた勅諚を奉じようというのです。 (3)在京諸藩の動き 表:禁門の政変当日に御所警備に出動した藩及びその動員兵力 (計
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