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文久3(1863) |
<要約>
将軍東帰後、尊攘急進派浪士による天誅が頻発する中、急進派の工作で大和行幸の詔が下った。神武陵等に行幸して攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮に行幸するという内容である。しかし、実は孝明天皇は親征を好まず、一種の偽勅であった。(A.大和行幸計画) 将軍東帰後、在京幕府代表となり、長州・急進派勢力と対立を深めていた京都守護職会津藩は、大和行幸/攘夷親征の動きに対抗して、在京薩摩藩と反長州・反急進派で連携し(会薩連合)、公武合体派の中川宮を擁して、急進派の専横を憎んでいた天皇の了解のもと、朝廷政変を実行した。この結果、長州、及び急進派公卿が京都から追放され、朝政は孝明天皇−公武合体派が実権を握った(B.禁門(8.18)の政変)。 |
幕府/ 京都 |
守護職:松平容保 | 所司代:稲葉正邦(淀) | ||
幕府/ 江戸 |
将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 首席老中: 水野忠精 |
老中:板倉勝静 |
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 | 参政・寄人:三条実美ら |
◆長州藩の即時親征論vs在京諸侯の親征慎重論文久3年6月の将軍徳川家茂東帰後、京都では尊攘急進派の主張する攘夷親征が大きな政治課題となっていた。最も過激なものは、将軍と入れ替わるように入京した久留米の神官真木和泉の親征→討幕論であり、同調する者も少なくなかった(こちら)。親征の建議採納のために、尊攘急進派は猛烈に運動を展開した。そのなかには、親征に否定的(幕府への攘夷委任を主張する者も含め)な公卿を威嚇するため、「幕吏と姦謀を通じ、逆賊(幕府のこと)の賄賂を受けて王政を防ぐ」(『徳川慶喜公伝』)者の天誅をしきりに行ったことも含まれる。朝廷の重鎮、中川宮も親征の際には先鋒を務めたいとしていた(こちら)。公武一和による攘夷を望む孝明天皇は、親征を好まず(こちら)、近衛前関白父子・二条斉敬右大臣・徳大寺内大臣は親征に反対していた。急進派公卿に押されがちな関白鷹司輔煕も本心は近衛前関白らと同様だった(こちら)。親征論採納への圧力が増す中、7月12日、天皇は薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとした(こちら)。親征に慎重な因幡藩主池田慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白した(こちら)。しかし、相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続き、16日には、急進派の牛耳る朝議で、久光召命は撤回させられてしまった(こちら)。 7月18日には、ついに尊攘急進派の後ろ盾である長州藩が藩論として攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫った(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず(こちら)。親征論は一時頓挫した。孤立した長州藩は、真木和泉とともに、在京諸侯を味方に引き入れようと慶徳に頻りに入説した(こちら)。 ※当時、朝廷が頼みにした在京諸侯の筆頭は因幡藩主池田慶徳(水戸9代藩主徳川斉昭の五男で後見職一橋慶喜の異母兄。斉昭の姉を母にもつ鷹司関白・二条右大臣とは従兄弟)であった。慶徳は、備前藩主池田茂政(斉昭七男、慶徳の実弟)、阿波藩世子蜂須賀茂韶(鷹司関白の甥、慶徳のいとこ甥、11代将軍徳川家斉の孫)、米沢藩主上杉斉憲とともに、朝廷から参謀を命じられており、6月末の入京以来、たびたび国事を下問されていた。慶徳ら四候は鎖港攘夷派だったが、幕府の屋台骨を揺るがしかねない親征には反対だった。 ◆守護職会津藩・在京有力四候(即時親征反対派)の軍事力アピール●会津藩の天覧馬揃え攘夷親征に慎重な因幡藩主池田慶徳は、7月19日に、鷹司関白邸にて在京諸侯に攘夷親征布告の可否が諮問された際、<天皇・公卿が、大兵を擁する会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと、天覧馬揃(天皇の前での軍事調練)を進言した(こちら)。関白が天皇に奏上したところ、天皇は因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃の開催を命じた(こちら)。関白から内示を受けた慶徳は、7月21日、二藩による調練は大人数となり「混雑」するとの理由で、諸藩親兵の調練を建議した(こちら)が、23日、伝奏は親兵の調練は「差支」があるという理由で会津一藩の馬揃を内定したことを慶徳に達した(こちら)。参議諸侯に異存がなかったため、7月24日、会津藩に対し、28日の馬揃えの朝命が下った(こちら)。なお、備前藩主池田茂政は、「幕臣会津」に「万々一心得違」があった場合に備えて、京都守衛のため上京した自分たちが当日警護を務めるべきだと考え、同意した慶徳の周旋の結果、因幡・備前・阿波・米沢藩に当日警護の朝命が下った。馬揃えの予定された7月28日はあいにくの雨天で、30日に順延された。7月30日も雨だったが、急な朝命により、夜になって会津藩の天覧馬揃えが決行された。藩士約800仁による馬揃えは滞りなく行われ、「急成議申聞候処、早速相揃候段、御満足思召候」との沙汰が伝えられた(こちら)。孝明天皇は、さらに、8月2日にも、会津藩主松平容保に対し、深く頼もしく思う内旨を口達させた(こちら)。 ●会津藩及び在京四藩の天覧馬揃え 8月3日、会津藩及び前回は警護にあたった阿波・因幡・備前・米沢に馬揃が命じられ(こちら)、8月5日に五藩による、総勢約2,800人の天覧馬揃えがおこわれた。前回は小銃の空砲が禁じられていたが、今回は、因幡藩主池田慶徳の周旋によって、許可された。小銃空発は、急進派公卿を恐怖でうろたえさせたという。また、この日、会津藩は、後日の不慮の事態に備えて、ひそかに武器を御所内凝華洞(お花畑)に納めたという。 ◆孝明天皇の親征vs中川宮の西国鎮撫相前後して、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫将軍を命じる動きが活発化した。その職掌としては四国・九州における攘夷掃斥や長州藩の攘夷戦争を応援しなかった小倉藩処分置等が考えられていた。8月7日の朝議において、孝明天皇は親征は時期尚早であると断固退け、その代りに中川宮に西国鎮撫を命じたいと言い出した。急進派公卿から、中川宮の西国鎮撫使任命かさもなくば「おイヤな」親征か、と二者択一を強く迫られたかららしい。この結果、翌8月8日、中川宮に西国鎮撫の内命が下りた(こちら)が、裏があることを察した中川宮は内命をあくまで固辞し、因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政兄弟に親征の建議を依頼するとともに(こちら)、代案として八幡行幸の布告&諸侯召命を建白した。慶徳・茂政は親征には反対だったが、打ち合わせの結果、親征布告、祈願の八幡行幸、「廟算一定」の上の幕府への厳重な沙汰・なお幕府が因循する場合の親王による内外の征伐実行の上書案を二条斉敬右大臣に提出することにした。 ところが、この間、8月7日にいったん不採用となった親征の朝議が再び盛んになっており、8月12日、天皇の内意を受けた二条右大臣は池田慶徳・茂政に対し、攘夷親征の朝議を阻むよう密命を下しました。同日深夜、慶徳・茂政は、密命に答え、親征阻止のシナリオ(天皇の勅書案、親征布告・慶徳ら東下・攘夷断行説得の間の親征暫時見合わせ)を示し、天皇に「御強被仰出様」求めたが(こちら)、既に、同日中に親征は治定されていした(こちら)。 ◆大和行幸−攘夷親征の詔文久3年8月13日、召によって参内した因幡・備前・米沢藩・阿波藩の朝議参謀四候を含む七候は、攘夷親征の「書付」を示された。前12日に二条右大臣から密命を受けていた因幡・備前始め朝議参謀四候は、御前において攘夷親征の猶予を強く主張した。ところが、孝明天皇は、猶予の勅命を出さなかった。さらに、御前を退出した四候に対し、関白鷹司輔煕は、親征及び中川宮の西国鎮撫は「宸断」による決定事項なので今後何度言上しても採用はない、と言い渡した。そして・・・文久3年8月13日夜、急進派の運動が功を奏し、ついに大和行幸(攘夷親征)の詔が公布された。『今度攘夷御祈願の為、大和國行幸、神武帝山陵・春日社等御拝、暫く御逗留御親征軍議あらせられ、其上神宮行幸の事』−孝明天皇が上位祈願のために大和に行幸し、神武天皇陵などを参拝し、攘夷親征の軍議を開いたのち、伊勢神宮に報告する・・・というものである。同時に、鷹司関白(別名「長州関白」)は、長州藩主父子のいずれかの上京を命じた。(こちら) 関連:■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変」 |
尊攘急進派の容保東下工作と孝明天皇の信任 将軍東帰後、 急進派は、障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には、容保に東下の勅命が降りた(こちら)。表向きは将軍帰府後の情勢視察と攘夷実現の周旋のためだが、実は真木が三条実美と謀って出させた勅命で、容保を退京させることが目的だった。容保退京後、勅して守護職を解任させようとの計画があったともいう。しかし、容保が公武一和を損なうとして東下を固辞したこと、また急進派の主張で勅諚を裁可した孝明天皇が裏面の事情を察して容保の東下をのぞまない内勅を出し(こちら)、その意思が強固なことから、容保の東下は沙汰やみとなった。孝明天皇は公武一和思想の持ち主で保守的だった。かねてより、門閥の低い公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が貫徹しない朝廷に怒りを感じていたのである |
幕府/ 京都 |
守護職:松平容保 | 所司代:稲葉正邦(淀) | ||
幕府/ 江戸 |
将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 首席老中: 水野忠精 |
老中:板倉勝静 |
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 | 参政・寄人:三条実美ら |
◆公武合体派の巻き返し:会薩−中川宮連合の成立8月13日、西国鎮撫をあくまで固辞したい中川宮は、薩摩藩士高崎左太郎に相談した。高崎(左)は、対抗策として、天皇への直奏による急進派公卿処分を提案し、中川宮の承諾を得たが、在京薩摩藩だけでは兵力が不足していた。そこで、高崎は、大兵を擁する会津藩を訪ね、公用局秋月悌次郎らに、中川宮の協力の下、連合して政変を起し、天皇の好まぬ大和行幸/親征を阻止しようともちかけた。在京兵力は乏しいが、会津がのらねば自分たちだけでやるとの決意を示した。秋月らは高崎と会うのは初めてだったが、もとより願うところと同意し、容保の承諾を得た。三者が打ち合わせを重ねた結果、8月16日朝に、中川宮が西国鎮撫使辞退を口実に参内して、急進派処分を直奏し、内勅を得て行動を起こすことが決った(こちら)。8月15日、容保は、江戸の閣老に書簡を送り、事態が極めて切迫し、親征が布告されたことを報じるとともに、「非常の尽力」をするので必ず後の一報を待つよう求めた。同じころ、交替で国許へ帰る途上にあった会津藩兵が続々と再入京した(こちら)。 8月16日朝、中川宮が参内して急進派処分を奏上した。孝明天皇は賛意を示したが内勅を下さず、そのうちに急進派公卿が参内してきたので、政変は未遂に終わった。ところが、同夜、孝明天皇はひそかに中川宮のもとに使いを派遣し、朝の奏事を熟慮した結果、会津・因幡両藩に処理させるようにとの内勅を下した。勅命が中川宮や薩摩藩に下りなかったのは「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」であった。ところが、そのことを知った高崎(左)は当初の計画通りに中川宮・会津藩・薩摩藩によるえたので、中川宮も当初計画通りの実行を決断した(こちら)。 8月17日、二条右大臣家には会津藩士秋月悌次郎、近衛前関白家には左太郎が説得に向かい、同意を取り付けた。同日、関係者密議の結果、ついに翌18日未明に参内・謁見して「非常の大議」を行う決意を固めた。その時に守護職・所司代も兵を率いて参内すること、また中川宮・二条右大臣の護衛に会津藩が、近衛前関白の護衛に薩摩藩士がつくことも決まった(こちら)。 ◆禁門の政変(8.18の政変)8月 18日子の刻(深夜0時頃)から、中川宮・近衛前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣ら公武合体派及び守護職松平容保らが密かに参内した。前後して御所各門(禁門)(豆知識:御所の外講九門・内講六門)はは会薩所司代の兵に固められて閉鎖された。召命のない者は関白・重職であろうと一切の参内を許さず(公卿の名前に「正」「暴」の印をつけたリストが配布され、「正」の印のついた者だけが、唐門(公家門)から参内が許された)、備前・米沢・因幡・阿波以外の藩兵の九門内(築地)立ち入りも禁じられた。8月18日七ツ頃(午前4時頃)、兵力配置が完了した合図として九門内凝花洞で大砲が一発鳴らされた。卯刻(午前6時頃)には、姉小路公知暗殺事件がきっかけで5月26日以来乾門(外講九門の西側門の一つ)警備を免じられていた薩摩藩に対し、「是迄通り警衛」せよとの沙汰が下りた。8月18日五ツ過ぎ(午前8時過ぎ)から、即参内を命じられた諸大名が続々と参内した。やがて、長州藩や急進派公卿を締め出したまま御前会議が開かれた。この結果以下の勅が下された。
一方、長州藩・急進派公卿ともに政変は予期していなかった。非常事態に気づいた彼らは堺町門東の鷹司邸に集まった。長州藩等の武装兵は隊形を組んで、堺町門警備の会津兵・薩摩兵と対峙した。召命によって参内した鷹司関白は長州藩を擁護したが、朝議は変わらなかった。九ツ半(13時頃)、柳原光愛が勅使として鷹司邸に出向き、天皇の攘夷の意思は変わらず、長州藩も頼みにしているので暴発せぬようにとの勅諚を伝え、さらに藩兵を鷹司邸から引き上げるよう命じた。次いで、清水谷公正が勅使として鷹司邸に赴き、三条実美らに対して、参内・他人面会禁止の勅命に従って引き取るよう命じた。夕刻、三条実美らは長州藩士・親兵・浪士らとともに鷹司邸を退去し、洛東の妙法院に入った。総勢約2,600人だったという。 ・ <禁門の政変当日に御所警備に出動した藩及びその動員兵力>
*会津は、政変に備えて、交替の藩兵を呼び戻している。天覧馬揃え時は約800名。 この政変の結果、長州藩とともに三条実美をはじめとする急進派公卿(七卿)は京都を去り(七卿の都落ち)、朝廷は公武合体派の掌握するところとなった。(こちら)。 8月26日、朝廷は、在京諸大名を招集し、18日以降の勅が真であると伝宣した(こちら)。さらに、8月29日には藩主父子取調べ、九門内の藩士往来禁止、藩主父子の上京禁止、留守居・添役以外の藩士帰国が命じられた(こちら)。 ◆攘夷の督促政変で急進派勢力は朝廷を追放されましたが、孝明天皇/朝廷の攘夷の意思は変わらず、政変翌日の8月19日、朝廷は幕府に(横浜鎖港)攘夷督促の沙汰を出した(こちら)。関連:■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変」 |
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8月16日、当初、孝明天皇が急進派処分の内勅を下さなかった理由として、朝廷内に天皇の命令を言葉通り伝える者がいないから、その時機ではないと危ぶんだから、等が伝わっている。天皇はかねての痔痛でトイレに時間がかかり、中川宮が十分に策を言上できなかったという、政変後の中川宮談話もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■未発に終わった越前・薩摩・肥後連合の政変計画 8.18政変は、薩摩藩と会津藩の提携によって緊急避難的に起こされたが、実は、、薩摩藩は、大和行幸の詔以前に、越前藩と連携して未発に終わった政変を企図していた。 越前藩は、6月1日、挙藩上京して、(1)朝幕会議による開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加を言上することを決定し(こちら)、藩士を京都に派遣し、進発時期を探らせることにした。在京薩摩藩(吉井幸輔・高崎佐太郎)・肥後藩(沼田勘解由)の同意をとりつけると、次に、両藩の同時上京を促すために、家老岡部豊後らが春嶽父子の直書を携え、熊本・鹿児島に向かった(こちら)。 この間、京都では尊攘急進派の攘夷親征論が盛んになっていき、当初、時機を待つべきだと考えていた在京薩摩藩は危機感を募らせた。7月2日、吉井は越前藩村田巳三郎に急進派公卿排除の要を説いた(こちら)が、4日、村田と面会した近衛前関白は、挙兵上京に賛同し、親征が天皇の叡慮ではないことを明かしたが、上京は時機を待つよう諭した。結果、越前藩は上京を一時見合わせた。吉井らは近衛家を訪ねて大和行幸延期を主張したが(こちら)、近衛前関白らは暫く「鎮静」するよう諭した。7月12日、天皇の強い意志で、久光召命の沙汰が下った。吉井から久光上京は8月上旬になるだろうと聞いた村田は、久光上京前の朝廷改革(急進派処分)断行を説き、吉井の同意を得た(こちら)。次いで近衛前関白からも、天皇も越前藩の藩論に同意しており、久光上京前の朝廷改革も検討すると伝えられた(こちら)。 しかしながら、7月17日に、急進派の圧力で召命が中止になり、23日には、越前藩内部の問題により、挙藩上京の藩論が一転して挙藩上京派は更迭されてしまった(こちら)。京都で周旋していた村田巳三郎(氏寿)も帰国(こちら)、挙藩上京を主導した政治顧問の横井小楠も福井を去り(こちら) 、越前藩の挙藩上京計画は完全に蹉跌した。岡部は、藩内の事情を知らないまま、途中、熊本に寄って、肥後藩主細川慶順の同意をとりつけ、最終目的地である鹿児島に入った。8月14日、久光は、越前藩の上京要請に対して返書し、その中で越前藩と同時に上京・国事周旋をする決意を明らかにしたが、時すでに遅かった。 ※在京薩摩藩・会津藩ともに禁門の政変後どうするかのビジョンがなかったため、政局は混乱していきますが、明確な方針のあった越前藩が政変の当事者であったら・・・と思わずにはいられません。(越前藩の方針には会津藩が猛反発しそうですが^^;) |
(2001/10/26, 2002.4.12, 2005.4.20)
<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『鹿児島県史料・玉里島津家史料』・『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『徳川慶喜増補版』 |
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