残し置く言の葉 HPトップ


新選組副長だった山南敬介は、元治2年(慶応元年)2月23日、切腹死を遂げました。山南の割腹理由には諸説あり、謎だとされてます。管理人は脱走説はとっていませんが、死の背景には、近藤・土方との深刻な対立があったと考えています。(関連:衛士館の「衛士覚書」「脱走説に疑義」「「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

5. 伊東甲子太郎-「山南氏の割腹を弔て」 (2004/8/22)
 
残し置く言の葉草 山南弔歌
『残し置く言の葉草』
(鈴木家蔵)より
    山南氏の割腹を弔て

春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるるかな

吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし

皇のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは

あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖にしほれは




こちらの文をあたかも自分の解釈であるかのように他HP・著作物等で披露すること(盗用)はやめてね。また、他HP・同人誌・商業誌(創作も含む)、レポート等作成の参考にされた場合はこのサイトのタイトルとアドレスを明記してください。無断転載・複写、及びアンチ&やおい作品へのご利用は固くおことわりします

■弔歌にみる山南敬介の死
一説に伊東と山南は意気投合していたといいます。真偽のほどはわかりません。ただ、伊東は、山南の死を惜しむ歌を詠んでいます。慶応4年に悟庵という人物が選んだ伊東の歌集「残し置く言の葉草」(@衛士館)約190首の中で、新選組隊士(の死)について詠まれた歌は山南への弔歌だけです。また、今のところほかにも隊士(の死)を詠んだものはみられません。むろん、伊東の歌のすべてが現在まで伝わっているわけではないのですが・・・。歌が4首も詠まれていることからも、伊東の衝撃の深さは想像できると思います。そして、管理人には、その4首の一つ一つから、同志としての山南の死を深く悼む気持ちがあふれ出ているように思われます。同時に、そこには、山南割腹の真相につながるものが、見え隠れしている気がしてなりません。

「春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるるかな」
<ヒロ訳>春風に吹き誘われ、散ってこそ、山桜は人に惜しまれるのか・・・。(あなたが割腹し果てた今、いまさらのように人々は失ったものの大きさに気づき、その死を惜しんでいることだ)。

山南が死んで今さらのように存在価値に気づき、惜しむ人々・・・。割腹の前、山南は隊内であまり重きを置かれていなかった様子がうかがわれるのではと思います。伊東は、それを残念にも無念にも思っているようです。

「吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし」
<ヒロ訳>吹く風に散った山桜を人は惜しむ。しかし、風にしおれ、枝にはりついているよりも、跡形もなく散る花こそが勇ましいのではないか。(逆風に畏縮し、志を枉げて汲々と生き続けるよりも、それに立ち向かって見事に散ったあなたの勇ましさをわたしは忘れない)。

この歌には、山南が、隊内で強い逆風に晒されていたことが暗喩されているのではないでしょうか。吹風=諸書に伝わる近藤勇and/or土方歳三との鋭い対立ではないでしょうか。自分の意見が容れられない時、組織にしがみつくことを選び、実力者/多数派に従って生きていく道もあるでしょう。そうではなく、命をかけて自分の信じるところを主張する道もあるでしょう。西村兼文説のように、山南は、近藤が土方の意見を重用するのを土方の奸眉に迷ったと憤激し、諫止のための自刃をしたのかどうかまでは、歌からはわかりません。山南が罠にはめられ、自刃に追い込まれたとの説を唱える方もいます。伊東のこの歌からは、少なくとも、山南が、失策を犯して割腹させられたのではないことがわかると思います。

「皇(すめらぎ)のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは」

<ヒロ訳>せめて、その魂魄はこの地に留まり、すめらぎの守りとなってくれ。この黒髪のように乱れた世に志半ばで無念の死を遂げた身なのだから。

山南が朝廷に忠誠心を抱いていたことが推し量れる歌だと思います。この世にあって、ともに王事に尽すことはもはや不可能だが、せめて魂魄は京地に残り、自分たちとともにあって、志をまっとうしてくれ・・・。そんな歌ではと思います。

「あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖にしほれば」
<ヒロ訳>たとえこの身を雨風にさらすこと(それほどの困難)になっても構うものか。わたしの袖は常にあなたの死を惜しむ涙で濡れ、絞っているほどなのだから。

*「よし」=「よしや」と解釈

あめ風に自分の身をさらす・・・第2首で、山南を吹く風に散った身としていますから、山南と同じように自分も厳しい立場に身を置くこともいとわないという意味ではと思います。たとえ、あなたのように近藤らと対立するとしても(あるいはそれ以上の困難な道を歩むとしても)、常にあなたを忘れず、信じるところは貫いていこう・・・。志半ばで無念の死を遂げねばならなかった山南の遺志を継いでいこうとする伊東の強い決意が込められているのではないでしょうか・・・・・・。


こうやって読んでいくと、これらの歌はいわば起承転結を構成しており、4首で一揃いであるという気がします。


■歌の詠まれた時期
さて、管理人は、これらの歌は山南の死の直後に詠まれたものではなく、時期を置いて詠まれたのだと考えています。伊東は歌を嗜んでいた人物ですから、実際の桜の開花・雨風と無縁に歌を詠んだのではないと思うのです。壬生に住んでいた高木在中という町人の元治2年の日記によれば、この年、山南の亡くなった2月23日(西暦では3月20日)はまだ京都では桜が咲いていなかったようで、それから約3〜4週後の3月12〜18日前後が盛りだったようです。そして、12日・13日と、壬生近辺では雷をともなう雨が降っています。桜も随分散ったことでしょう・・・。伊東の歌の情景とあいますよね。

表:元治2年3月の壬生界隈の天候
十二日 晴天。嵐山桜花盛の由。(中略)夜雨降四ツ過ぎより雷鳴、八ツ半時甚しく、翌日朝、六ツ半止。
十三日 雨降。四ツ前二ツ鳴。(後略)
十四日 交天(好天?)。夜同断。
十五日  晴天。夜同断。
十六日 双天(掃天?)。七ツ前より雨降。(後略)
十七日 晴天。家内之者御室へ行、桜花最中之由。夜同断。
十八日 晴天。東山桜極咲り也。夜同断。

ところで、この桜のピークの時期は、山南の死の原因ともされる屯所の西本願寺移転が行われた時期と重なる可能性があるようです。3月1日付土方歳三書簡によれば、移転が3月10日頃の予定だとされているからです。ただし、移転の正確な日付まではわかっていないようです。高木の日記では、同月13日に混雑があったとされていますので、移転は13日だったのかもしれません。

だとすれば、最後の歌などは、伊東が壬生を離れる前に、降りしきる雨の中、光縁寺に眠る山南を訪ねたときのものかもしれない・・・と想像してしまいます。

★大河に喝!
今回の大河は、伊東登場にあわせて2回ほどみましたが、あまりにばかばかしいので見るのをやめています。ただ、ドラマの中で、伊東がこれらの歌をさかしく披露して顰蹙を買うなど、伊東の悪役・敵役としての印象を強化するために使われるのではないか・・・ということは懸念していました。大河をご覧になった方によれば、悪い予想があたったようです。伊東が心をこめて詠んだだろう歌がそのような道具に使われるなんて、本当に無念でなりません(大河の作家が管理人のように歌を解釈したとは思えませんが)。伊東も、歌を選んでくれと悟庵に依頼した弟の三樹三郎も、歌を撰んでこの世に残した悟庵も、このようなことになって、さぞ無念でしょう・・・。実在の人物を扱った創作には最低限のモラルやマナーというものがあるのではないでしょうか。今回の大河は、そういう意味でも、サイテーだと思います。見るのをやめて正解でした。
(2004.8.22、8.23)

他HP・同人誌・商業誌(創作も含む)、レポート等作成の参考にされた場合は
参考資料欄にサイトのタイトルとアドレスを明記してください。
無断転載・引用・複写、及びやおい作品へのご利用は固くおことわりしますm(__)m。


残し置く言の葉 HPトップ