元治2年2月4日(1865年3月1日)、将軍上洛を促すための京都守護職会津候松平容保の東下勅許が撤回されました。 実は容保の東下は、長州処分を議するために諸大名を京都に召集しようという動きに反対してのことで、3日前には勅許が降りていました。しかし、会津候が不在の間、反幕派の公卿や浪士が跳梁するのを恐れた肥後藩士の周旋で、朝議が一変し、この日、関白は「老中阿部と本庄が一両日中に入京するのでそれまで東下はやめるべし」との内旨を出したのです。 <容保東下の背景> 第1次征長戦は長州の服罪によって前年末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:松平容保の実兄)が入京していましたが、慶勝は長州処分を幕府に委ねるとしたものの、諸藩の意見も聞くべきだと諸藩会同を奏請し、禁裏守衛総督である一橋慶喜の合意も得ていました。 また、朝廷は将軍の上洛を督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。そればかりか、幕府は「長州処分は江戸にて行うので今回は将軍は上洛する必要がない」と中止を布告していたのです。 容保は朝廷の意思に反する将軍上洛不履行も、また諸大名の召集も幕府のにとって一大事だと認識しており、「京都守護職としては黙視すべきではない」と、家臣に諸藩会同反対の運動をさせる一方、「会津候自ら東下して将軍上洛を促すので20日の暇を願いたい」と朝廷に許可を求めていたのです。 さて、幕府は将軍を上洛させるかわりに、老中阿部と本庄宗秀に幕兵(3000〜8000人)を率いて上京の途につかせていました。これは兵力をもって京都を威圧し、諸大名が朝廷政治に関与するのを防ぎ、幕府が「京都寄りで幕府を苦しめている」と猜疑する禁裏守衛総督一橋慶喜、守護職松平容保、所司代松平定敬を罷免し、幕兵をもって御所を警備して諸藩の兵と公卿の連絡を絶ち、さらに賄賂をもって公卿を篭絡することが目的だったとされています。 江戸の老中が会津候を京都寄りとして忌避することひとかたならず、前年9月から守護職在任中の費用(一月一万両)を差し止めているほどで、容保の東下について伝えきくや、東下すればすぐに守護職を罷免させようと言っていたそうです。 ●・●・● 元治2年2月4日(1865年3月1日)から16日間に渡って、加賀藩に降伏した天狗党の処刑が敦賀で行われました。 天狗党の領袖は元水戸藩家老武田耕雲斎、慶喜が文久3年に上洛したとき、是非相談相手にと水戸藩から借り受け、慶喜のために奔走した人物です。武田らは慶喜に嘆願する旨(慶喜の実父でもある亡き烈公の遺志を継いで攘夷を行おうとするも派閥党争で阻まれ、却って讒言を受けて幕府に追討されるようになったが、彼らの素志は攘夷で、ただ朝廷と幕府に尽くしたいと願っていることを理解してほしいこと)ありと西上していましたが、当の慶喜が追討総督として京都を出発したことを知り、慶喜に抗することはできないとその先鋒である加賀藩に降伏していました。加賀藩では天狗党は武士としての処遇を受けていましたが、その後、幕府の田沼意尊に引き渡されてからは、商家の土蔵に閉じ込められ、足かせをされ食事も満足に与えられないなどの虐待を受けていました。 この日、武田らは斬首され、その首級は水戸に送られて鳩首されました。16日間に合計250〜350余人が斬られ、その他は流罪・追放となりました。このあと、元治2年3月に入ってからは武田の妻子・孫までが水戸で斬られ、その他の降伏人40数名も斬られました。土蔵への禁固から始まる幕府の天狗党への酷薄な処分は多くのひとびとの顰蹙を買いました。(天狗党の志士詩歌、帰国後にUPしますね。胸をうたれるものが多いです:涙) この件について、慶喜は後にこう語っています。 「あれはね、つまり攘夷とかなんとかいろいろいうけれども、その実は党派の争いなんだ。攘夷を主としてどうこうというわけではない。情実においては可哀そうなところもあるのだ。しかし何しろ幕府の方に手向かって戦争をしたのだ。そうして見るとそのかどでまったく罪なしとはいわれない。それでその時は、私の身の上がなかなか危ない身の上であった。それでどうも何分にも、武田のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ。降伏したので加州はじめそれぞれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせということにして引き上げたのだ」(『昔夢会筆記』) 実は、上で述べたように慶喜は、京都守護職松平容保や京都所司代松平定敬とともに、前年来、幕府の深い嫌疑をこうむっていたのです。 <ヒロ> 山南敬介の脱走は、永倉新八の晩年の回想をもとにした読み物である『新撰組顛末記』にしか記述がなく、もともと史料的根拠に薄いのですが、事実のように扱われているきらいがあります。この山南の脱走理由のひとつとして、天狗党に対する幕府の処置に絶望して新選組にいるのがいやになったのだ(これも史料的裏づけのない想像です)と主張する文をみたことがあります。わたしは脱走自体なかったと思っていますが、仮に脱走があったとしても・・・はたして天狗党への幕府の態度が重要な脱走理由になるのだろうかと思います。 当時、新選組は京都守護職配下でしたが、守護職公用人は水戸本国寺党(京都水戸藩邸の尊皇派)の頼みを受けて処分寛大を中川宮に内願するなど、天狗党に同情的だったようです。また、当時、容保は幕府の嫌疑をこうむっており、幕閣と守護職は必ずしも一心同体ではありませんでした。天狗党処分で幕府に失望することが即新選組を脱走する気持ちにつながるかどうかは疑問だと思うのです。 (2001/3/1) <参考> 『会津松平家譜』、『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』 |