元治2年2月6日(1865年3月3日)、老中本庄宗秀が大兵を率いて上洛しました。翌日は阿部正外がやはり率兵入京しています。 <率兵上洛の背景> 前年来朝廷は将軍の再上洛を督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。征長戦後の長州処分についても、幕府は「長州処分は江戸にて行うので今回は将軍は上洛する必要がない」と中止を布告していました。幕府は将軍を上洛させるかわりに、老中阿部と本庄宗秀に幕兵(3000〜8000人)を率いて上京の途につかせました。 当時の世評では率兵上洛の目的は、幕府兵力をもって京都を威圧し、諸大名が朝廷政治に関与するのを防ぎ、「京都寄りで幕府を苦しめている」と猜疑する禁裏守衛総督一橋慶喜、守護職松平容保、所司代松平定敬を罷免し、幕兵をもって御所を警備して諸藩の兵と公卿の連絡を絶ち、さらに賄賂をもって公卿を篭絡することだったとされています。 入京後、本庄は慶喜に面会し、将軍の上洛はないこと、また京都から強制されるようなことがあれば一同辞職することに決めたこと、また、老中阿部・本庄の2名は京都に留まって幕政を見るので慶喜、会津候(守護職)・桑名候(所司代)は江戸に帰るべき等の命令を伝えました。さらに、水戸の取締(天狗党の争乱の後始末)には前水戸藩主の子でもある慶喜しか適任者がいないので30〜40日は帰国するようにと勧告をしましたが、慶喜はこれをしりぞけています。 (2001/3/3) <参考> 『会津松平家譜』、『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』 |