慶応3年6月13日(1867年7月14日)、佐野・茨木ら10名は連名で会津藩に上書を提出し、近藤を説得するよう願いでましたが、返事をもらえず、翌日出直すことになりました。 穏便に除隊する方策として伊東が授けた策に従っての建白書提出でした。受け取ったのは公用人の小野権之丞、諏訪常吉でした。建白書の大意は次の通りです。 「恐れながらわれわれは先年来、勤王攘夷のため、尽忠報国の志を立てたい一心で本国を脱走し、新選組に身を預けていましが、(中略ヒロ)・・・今さら(幕臣という)格式をちょうだいしては、それぞれの本藩へも面目なく、ニ君につかえるということからも逃れることができず、これにより難しい状況になってしまいます。恐れ入りますが、御支配の法のこともありますので、どうか(近藤)隊長にこのむねを伝えて異議なく願いがききとどけられるよう、泣血嘆願いたします」(口語訳はヒロ) 公用方諏訪は、願いのむきはわかったので近藤に照会してから返答するのであとでまたくるようにと言いました。ところが近藤は、「これは伊東の誘導によるものでほかの隊士にも不利益を招くものであり、帰隊するよう説得してください」と言ったそうです。 夕方になって10名が藩邸を訪問したときに、諏訪は「願いもわかるが、こちらにも都合があるので、とりあえず一度新選組に帰りなさい」と説得しましたが、茨木らは承知せず、夜になっても藩邸から動く気配がありませんでした。困った諏訪は、<それでは明日またくるように。それまでよく考えた上で返事をするから>と言いました。茨木は<時節がら、一泊の宿をみつけるのは難しいがどうするべきでしょう。伊東のところなら大丈夫ですから、副書でもいただければ一泊くらいは(近藤も)免じるでしょう>といいましたが、諏訪はその一書を与えなかったので、茨木らは行き先をなくしてしまいました。 しかたなく、茨木らは西村兼文を訪ね、<伊東に明日の策を求めてきてくれ>と頼みました。西村が長円寺の伊東兄弟を訪ねて一部始終を話すと、<明朝、ひそかに私宅にくるように>との答えでした。西村は伊東の言葉を茨木らに伝えると、堀川の旅館に談じて一泊させました。 14日の明け方、茨木らは長円寺の伊東に会いに行ったところ、伊東は<諸君、今日の会津行きは必ずよくないことになる。いかにも不安です。近藤はどんな策略をもっているかわからないし、とりあえず一度京都を去って身を隠し、時勢を待ってはどうだろう>と説得したのですが(伊東らは脱走者浅野薫を落ちのびさせようと努力したことがあります)、茨木は<まさか守護職邸でなにかするわけがない。そのへんはきづかいなく>とでかけてしまったそうです。 関連: 慶応3年6月10日-新選組総員幕臣取りたて/御陵衛士同志の会津藩邸横死事件(1)幕臣取立てに反発 <ヒロ> 西村は、『新撰組始末記』の著書であり、茨木らが頼るほどの関係だったことがうかがわれます。 参考:西村兼文著『新撰組始末記』 |