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慶応3年8月8日(1867年9月5日)、御陵衛士は長州処分に関する建白書(こちら)を朝幕双方に提出しました。 この建白書の概要は以下のとおり(口語訳・要約はヒロ)
<ヒロ> この時期、京都の政界で懸案となっていたのが長州処分でした。これについては、同年5月24日に兵庫開港と抱き合せで長州寛大の勅命が出ていました(兵庫開港は先帝の孝明天皇は反対していましたが、慶喜の豪腕で勅命確保にこぎつけました。慶喜にとっては、長州寛大は兵庫開港のための方便だったのかもしれません。なお、兵庫開港の勅許獲得により倒幕機運はさらに高まったといいます)。この時点では長州寛大の中身−藩主父子の官位復旧が議論となっていましたが、京都朝廷で権力をもっていた中川宮&慶喜は官位復旧を認めようとせず、島津(薩摩)、伊達(宇和島)、山内容堂(土佐)、松平春嶽(越前)のいわゆる有力四侯と対立していました。 伊東らが建白書を出した直前の8月4日には、中川宮&慶喜ラインの勅答(官位復旧など寛大な処分をしてから兵庫開港を・・・という四侯の要求を退けるもの)がでており、6日には島津・伊達が抗議の建白を提出、翌7日には、中川宮がこの建白を「朝議を誹謗するもの」と激怒するという混乱状態にありました。 伊東らは建白書において官位復旧を主張しており、四侯と立場を同じくしています。長州厳罰をおこなうなら幕府の私怨であるとの議論がでてくると手厳しいことを言っていますが、その主張は「一和同心の基本を立てるための長州寛典(官位復旧)」が肝要というところで、反幕の匂いは感じられません。この一和(同心)は伊東の他の建白書にも繰り返し使われている、彼らの活動の大眼目です。 長州処分寛大の立場は近藤が前に出した(そして受理されなかった)長州厳罰論の建白書とはかなり違います。西村兼文によれば、伊東らの長州寛大の建白書提出に対し、近藤らは激怒したようで、この建白書が油小路事件の遠因になったとされています。(以前の関連投稿が『居酒屋』にありますのでよかったらご覧ください) ちなみに当時の守護職会津藩ですが、慶喜が将軍に就任して以来、幕府の政務にほとんど関わらず、長州処分にも兵庫開港の決定にも関与していません。容保は将軍慶喜の出仕要請を断り続け、慶応3年2月には守護職辞任の書面まで提出しています。その後、守護職辞任がききいれられないとなると、守護職在任のままの容保の一時帰国を要請し続けます。そして、伊東らが建白書を出したのと同じ8月8日、慶喜から京都滞在に関する直々の懇願がされ、評議の結果、ようやくそれを受け入れることにしたのです。 関連:建白書(2)長州寛典を促す建白書 |