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B-2 御陵衛士建白書(2)長州寛典を促す建白書


慶応3年8月8日、伊東甲子太郎は同志とともに、朝廷・幕府の双方(議奏で山陵掛の柳原光愛と老中板倉勝静)に対し、長州寛典の建白書を提出しました。再々征となれば内乱となり、外国の介入も招きかねないと分析。寛大な処分により、戦争を回避し、皇国の一和という政治の基本を立てるべきという主張で、事の是非の議論よりも、一和を優先する主旨になっています。

<背景>ところで、長州寛典については、同年5月24日、将軍徳川慶喜が兵庫開港と同時に勅許を得ていました。なぜ今更建白書を出す必要があったのでしょうか?実は、は一方の兵庫開港は即布告したものの、長州処分についてはなかなか実行する気配がありませんでした。この頃には長州寛典の中身−藩主父子の官位復旧が議論となっていましたが、京都朝廷で権力をもっていた中川宮&慶喜は官位復旧を認めようとせず、島津久光(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)、松平春嶽(越前)のいわゆる有力四侯と対立していました。伊東らが建白書を出した直前の8月4日には、中川宮&慶喜ラインの勅答(「官位復旧など寛大な処分をしてから兵庫開港を・・・」という四侯の要求を退けるもの)がでており、同月6日には久光・宗城が抗議の建白を提出、翌7日には、中川宮がこの建白を「朝議を誹謗するもの」と激怒するという混乱状態にありました。(幕末館の「今日の幕末」で慶応3年に到達すれば(遠い先ですが)、このへんもしつこく追いかけるつもりです。きっと伊東らの建白の背景や彼らの拠る立場がより明確になってくると思いますので)。

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原文(句読点by管理人) 建白書口語訳(by管理人)
一八月八日議奏柳原大納言殿閣老板倉伊賀守殿等へ差出候建白

草庵微躯之者とも不顧浅慮建言仕恐入奉存得共、方今之形勢、天下の人心熟考仕候ニ、国家存亡之急務ハ長防御処置之振合ニ寄候事ニ而、追々諸藩より建白之品(*1)も伝承仕候得共、昨年戦争以来、今日之勢、道理曲直罪科軽重御議論被為在候御場合共不奉存、若し(*2)再干戈之動揺ニ立至候てハ仮令長防御征討御成功ニ相成候とも人心却而乱雑及天下之議論沸騰仕、諸侯万民不服之師を被挙候相成行、終幕府曲直之議論争訟ルハ必然不可防候。其上寛大 御奏問之御趣意も難相立、万一戦争之模様ニ寄リ候而者、如何様情態ニ可押移哉。長防之事件より海内動揺瓦解仕、或ハ外夷依頼之○(ママ:*3)周旋を託シ終ニ彼之附庸属国之格体ニ可立候、不得知者顕然ニ御座候而、天下之大難此外不可在。乍併御処置之一端ニて、却て平常一和(*4)之御基本も相立可申奉存候。既ニ
先帝被為止兵庫も為事務不被為得止 御許容相成候程、成国家之浮沈危急之世態ニ有之候處、寛大之御處置ニ軽重御品柄付候様ニてハ決而御請仕がたく(*5)
先帝被為止置候兵庫開港并寛大 御奏聞之御意味ニ相反し、全幕府御私怨之様、乍恐争議可致候。尤罪科有無之物議者、当今口実弊風ニハ御座候得共、御精実為国家之被 思召、非常寛大之御沙汰被 仰出、復官平常、其上天気相伺候様祖先之遂忠誠可尽旨(*6)被 仰達候得共(ママ:*7)、於長防士民も感服仕、天下只々一和之基本相立候のミならす
先帝御寛典之叡慮ニも被為叶、天下之企望満足可仕奉存候。只管奏懇祷候者、其罪不被為問、天下人心ニ隋ひ被遊ハゝ(ママ:*8)、寛大被仰立候御意味ニ御名実不被為失御処置之上ハ、一和之御基本有之候ハゝ、天機為伺登京仕、却て彼より 幕府之御失態を論候様之御懸念も被為在候歟奉存得共、右意外寛大御所置被仰出候を誰一人感載不仕者可有之哉。其上ニて不服之義も御座候ハゝ、申上迄も不及、国民皆同論ニ帰可申、何卒国難多端之折柄、人心御洞察被遊、広大之御遠慮、為国家非常出格之御沙汰ニ候之處 御督責之義ハ御差除ニ無他事、寛典之恩慮被 仰出可然儀ト、切迫仕候至願候(*9)。誠恐頓首謹言。

 卯八月八日
      伊東甲子太郎
      斎藤一
      藤堂平介
      三樹三郎(*10)
草莽微躯の者共が浅慮を顧みず建言いたしますのは恐れ入りますが、最近の形勢及び天下の人心を熟考いたしますに、国家存亡の急務は長州・防州処分次第であり、追々諸藩からの建白があったと伝え聞いておりますが、昨年の戦争(=第ニ次征長戦)以来の今日の勢をみれば、道理の曲直や罪科の軽重を議論する場合だとは存じません。

もし、再び干戈を動かす(=戦争をする)ことになっては、仮に長防の征討が成功しても、人心は却って混乱し、天下の議論は沸騰し、諸侯万民が不服の挙兵をするように成り、ついには幕府が曲か直かという争議になることは必然で防げません。その上、寛大な御奏聞の御趣意も立ち難く、万一戦争が起これば、どうなるでしょうか。長・防の事件によって、国内は動揺・瓦解するか、あるいは外国に依頼してその周旋を任せ、終には属国化してしまうことは知者を待たずとも明らかでございます。天下の大難はこの外にありえません。

しかしながら、(長・防)処置の一端によっては、逆に、平生一和の御基本も立つと存じます。既に先帝(=孝明天皇)が拒否された兵庫開港も、事務のために止むを得ず御許容になるほど、国家の浮沈は危急なる世態であります。寛大の処置に軽重をつけるようでは(長州はその処置を)決してお請けできず、(逆にその処置は)先帝が中止された兵庫開港及び寛大の御奏聞の意図に反し、全く幕府の私怨であると、恐れながら、争議いたすことでしょう。

もっとも、罪科の有無を議論することは当今の口実・弊風ではございますが、誠実に国家の為を思召され、非常寛大の御沙汰を下され、(長州藩父子の)官位を復旧し、その上、(彼らに上京して)天機を伺って祖先の忠誠を遂げるよう尽せと命じられれば、必ず防長の士民も感服いたし、天下一和の基本が立つだけではなく、先帝の(長州)寛典の叡慮にも叶い、天下の望みも満たされるだろうと存じます。

只々、願いますのは、(長州の)罪を問われず、天下の人心に従われ、(孝明天皇が)やむをえず(兵庫を)開港され、寛大を仰せになった御意図に名実を失わさせぬ御処置の上、一和の御基本があれば、(長州が)天機を伺うために上京して、却って幕府の失態を論じるのではとの御懸念もあるかと存じますが、右の意外にも寛大な御処置を仰せ出されれば、誰一人として感戴せぬ者がいるでしょうか。

その上で、不服がございますれば、申し上げるまでもなく、国民皆が同論に帰すために、国難多端の折柄、なにとぞ人心を洞察され、広大の御遠慮(=遠謀)・国家のため非常出格の御沙汰ですので、督責の件は除き、寛典を仰せ出されて然るべきと、切迫伏してお願いいたします。
出所:『中山忠能履歴資料』(句読点は管理人が任意にいれています)2006/12/21

建白に関するコメントはいずれ・・・。

*1「建白の品」は『殉難録稿』収録の建白書(以下、『殉』)では「建白の向」。コンテクストからは「建白の向」だろう。
*2『殉』では、「若し」はない。 *3欠字部分は『殉』によれば「其」 *4『殉』では「平常一話」→「平生一和」
*5「寛大之御處置ニ軽重御品柄付候様ニてハ決而御請仕がたく」は『殉』では「寛大の御処置に軽重候品柄に付候様に而者、決而御請仕間敷の情実御洞察の上、御処置振に御議論有之候而者」。
*6「祖先之遂忠誠可尽旨」は『殉』では「祖先の通り忠誠可尽旨」  
*7「被 仰達候得共」は『殉』では「被仰達候へは」。文脈からは「得共」より「へは」だろう。
*8「不得止開港被遊候ハゝ」は『殉』では「不得上(ママ)開港被遊候と」。既に開港しているので、「候ハゝ」ではなく「候と」だろう。
*9「切迫仕候至願候」は『殉』では「切迫伏従至願候」。口語訳は『殉』の方を採った。
*10 「近世史料」「新聞書」(『大日本史料稿本』)では差出人は11名。『中山忠能履歴史料』は5人目以降を省略しているようである (2010/12/14)
「新聞書」の差出人
 伊東甲子太郎
 齋藤一
 藤堂平助
 三樹三郎
 藤井忠雄
 篠原秦之進
 服部武雄
 加納鵬雄  
 阿部真一郎
 毛内有之助
 橋本会助 (←会は旧字)
  
「近世史料」の差出人
 伊東甲子太郎
 齋藤一
 藤堂平助
 三樹三郎
 藤井忠雄
 篠原秦之進
 服部武雄
 加納彫雄  
 阿部真一郎
 毛内有之助
 橋本兵助
 

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