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1. 徳川斉昭の9代藩主就任

【要約】 水戸8代藩主斉脩(なりのぶ)には子どもがいないため、世継をめぐって、藩内は、斉脩の異母弟斉昭(なりあき)擁立派と将軍家慶の子で清水家当主の清水恒之丞(斉脩夫人蜂姫の弟)擁立派に分かれて激しく対立した。恒之丞派は将軍家との縁を重視する門閥・保守派であり、斉昭派の多くは新進・尊攘改革派でもあった。文政12(1829)年、斉脩が死去し、その遺言で斉昭が9代藩主に就いた。

(1)藩主後継問題

幕末の水戸藩主として有名な9代徳川斉昭(なりあき)は7代藩主冶紀(はるとし)の第三子で、8代藩主斉脩(なりのぶ)の弟である。部屋住だった斉昭は、斉脩(なりのぶ)に子どもがいなかったため、藩主に就任したのだが、これはお家騒動の末であった。病弱だった斉脩の世継をめぐって、藩内は、斉脩の異母弟斉昭(なりあき)擁立派と将軍家慶の子で清水家当主の清水恒之丞(斉脩夫人姫の弟)擁立派に分かれて激しく対立したのである。しかも藩主後継問題は藩政改革問題ともリンクしていた。水戸藩は財政逼迫に苦しみ、また英国船の水戸領大津浜接近(⇒余話)により対外危機意識が高まっていた。恒之丞派はこれら内憂外患に対処するのに、将軍家との縁を重視し、幕府からの財政援助を得ようとする門閥・保守派であり、斉昭派の多くは新進・藩政改革派であった。

(2) 新進・改革派と保守・門閥派の対立

水戸藩における門閥・保守派新進・藩政改革派の対立は斉昭の父・治紀の時代に遡る。治紀は、藤田幽谷(ふじた・ゆうこく)ら門地の低い人材を積極的に登用した。郡奉行に任じられた幽谷ら新進・改革派(藤田派)は、農村の復興など藩政の刷新を実行しようとしたが、門閥・保守派の抵抗にあった(*1)。そして、治紀の後を継いだ斉脩の時代になると、病弱で藩政は家臣に委ねたため、門閥・保守派が勢力をはり、新進・改革派の郡奉行は更迭された。斉昭は幼少から幽谷の弟子会沢正志斎に教育を受けており、新進・改革派に次期藩主として嘱望されたのである。

表1-1 斉昭就任前の水戸藩派閥
藩主
後継問題
藩政
改革問題
学閥 主要人物
斉昭 (8代藩主斉脩弟)派 新進・
改革派
藤田派 山野辺兵庫(水戸家老)、藤田東湖(水戸彰孝館総裁)、戸田銀次郎、吉成又衛門(信貞)、青山延于(江戸彰孝館総裁)、川瀬教徳、会沢正志斎
恒之丞 (将軍家慶の子)派
保守・
門閥派
立原派 榊原昭昌(江戸家老)、赤林八郎左衛門、岡崎平兵衛


*1 新進・改革派と門閥・保守派の党争の背景には、実は立原翠軒門下と藤田幽谷門下の学問の派閥党争があった。斉昭の祖父、6代藩主治保(はるもり)の時代、彰孝館(史館)総裁・立原翠軒(すいけん・甚五郎とも)の下、中断されていた大日本史編纂事業が再開された。翠軒の門下・藤田幽谷(ゆうこく・次郎右衛門、一正)も町人身分ながら非常に優秀ということで抜擢され。事業に携わった。しかし、編纂方針をめぐって翠軒幽谷が対立し、幽谷の説が採られて翠軒は総裁を罷免された。以後、立原門下と藤田門下は派閥を作って学問的に対立した。

(3) 斉昭の藩主就任

文政12(1829)年、斉脩が死去した。後継は斉脩の遺言で斉昭(30歳)と決まった(*2)。これは藩政改革問題における新進・改革派の勝利でもあった。

*2 江戸藩邸の斉脩が重態になったとき、在江戸斉昭派の青山延于は水戸に早馬を送った。急報を受けた斉昭派山野辺兵庫、藤田東湖、武田耕雲斎、戸田銀次郎、金子孫次郎、安島帯刀、会沢正志斎ら藩士数十名は、藩の禁を犯して無断で江戸へ急行し(無願出府)、斉昭襲封のためかけまわった。郷士、農民、神官ら数百人もこれに続き、松戸の関所で押しとどめられたが、そのまま待機した。斉昭擁立のため江戸へ南上した人々を南上派という。形式的な咎めしかなかったこともあり、以後も、ことあると江戸に無断出府することになった。このとき南上した藩士の多くは安政の大獄・桜田門外の変・天狗党の乱で横死している。

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