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2.天保の藩政改革

【要約】
藩主に就いた斉昭は、藤田東湖・戸田銀次郎尊攘改革派を登用し、翌天保元年(1830)より軍備充実、学校設置、農村改革、社寺改革の藩政改革を断行した。

(1) 天保の藩政改革 (天保1〜14/1830〜43)

9代藩主に就いた斉昭は藩の中枢から江戸家老榊原照昌ら門閥・保守派を一掃すると、藤田東湖・戸田銀次郎ら尊攘改革派の軽輩を積極的に登用し、翌天保元(1830)年から、内憂外患に対応する藩政改革を断行した。藩の財政逼迫と対外危機意識の高まり(英国船の水戸領大津浜接近等)を受け、改革の分野は質素倹約の励行、軍備充実・軍制改革、学校設置、財政再建、殖産興業、検地等農村改革、社寺改革と多岐に渡った(表2-1参照)。

天保時代、幕府・諸藩が改革を行ったが、水戸藩の改革はこれらに先立つものであった。また、斉昭に登用された幽谷門下の東湖・会沢正志斎らによって後期水戸学(天保学)が発達し、その後の尊攘運動に大きな影響を与えた。

関連:「開国開城−天保年間:開国前夜(1)」

表2-1:水戸藩の天保改革
1 質素倹約の励行 ぜいたく禁止と衣食住にわたる徹底した倹約。藩主自ら範を示す。
2 軍備充実・
軍制改革
異国船来航、天保の飢饉による藩内一揆、大塩平八郎の乱等の内憂外患に対する危機感があり、軍備強化をはかった。
■海防強化(海防掛の新設、反射炉・砲台・海防城郭の建設)
■農兵設置・神官の軍隊編入
■追鳥狩に名を借りた大規模軍事演習(神官・郷士も参加)
■銃隊組織の軍制確立(高島秋帆から西洋砲術を学ばせる)
■毀鐘鋳砲(社寺の鐘や仏像をつぶして大砲鋳造に)
3 学校設置 藩士のための藩校だけでなく、農村住民(郷医・神官・郷士・村役人・農民ら好学者は誰でもOK)のための郷校設置。
■藩校:弘道館・医学館
■郷校:敬業館(湊)・益習館(常陸太田)・興芸館(日立)・時雍館(東茨城)など。
■藩校への蘭学導入・洋書掛設置
4 財政建て直し ■江戸在勤者500〜600名の水戸移住(水戸藩は参勤交替がなく藩主が江戸詰めである「定府制」のため、江戸在勤者が多く、経費がかかっていた)。このとき、江戸の史館は水戸の史館に合併吸収。
■禄制改革⇒効果はあがらなかった。
■蝦夷地開拓の請願
5 殖産興業 *あまり効果があがらず
6 検地(農村対策 ■全領検地(年貢増加より、富農への土地集中と貧農の増加による農村の疲弊防止が主眼)
■間引き・堕胎禁止、妊婦届出制
■領内倉増設
7 社寺改革 ■神仏分離(神仏混交の神社には仏教祭儀をやめさせ、神道だけとした。神道を重んじた水戸学思想の現われ)。
■領内火葬の禁止(火葬は仏教のもたらした「邪教的習慣」とされた)
(参考)『茨城県の歴史』より作成

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