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生野の乱(但馬の乱) 編

「生野の乱」とは

<詩歌>

戸原卯橘 筑前
秋月
藩士
<文久3年10月14日 同志とともに妙見山で自刃 29歳>

「冬の夜は柞(ははそ)の森や寒からんいたくな吹きそ峯の小あらし」
(殉難拾遺)
南八郎  
(河上弥市)

長州
藩士
<文久3年10月14日 妙見山で同志9名を介錯後自刃 21歳>

「おくれなば梅も桜に劣るらん魁てこそいろも香もあれ」
「議論より実を行へなまけ武士国の大事をよそに見る馬鹿」
(殉難遺章)

 文久三亥の歳の冬国を出でて但馬におもむく時よめる
「なくなくも母に別れて出でてゆく心の底ぞおもひやらるる」
(防長正気集)
白石廉作
長州 <文久3年10月14日 同志とともに自刃 26歳>

「百魔千障交相攻 馳驅工夫只躬返
到底除難私一字 如今猶未是英雄
(殉難拾遺 一人一首伝)
肥田左衛門

河州 <文久3年10月14日 同志とともに自刃>
「かかるとき唯いつまでもながらへてかつてこころを国にむくはん」
(一人一首伝)
中原太郎

三河
刈谷
<文久3年10月 播州木之谷村で戦死>
「臥して思ひ起きても思ふ皇(すめらぎ)のみ旗なびかえしえみしはらはむ」
(殉難続章)
平野国臣 筑前 <元治元年7月20日 六角獄で斬死 37歳>

「隼人の薩摩の国の名にめでてはやくも事をはたしませ君」

(興風後集)

「弓は折れ太刀は砕けて身はつかれいきつきあへず死ねば死ぬべし」
「生野山まだ木枯らしもさそはぬにあたら紅葉のちりぢりにして」
「菰着てもむしろに寝ても大丈夫の大和魂なにけがるべき」

 京に送られけるとき淀川堤にて
「このたびはわきて身にしむ心地せりまだ春寒き淀の川風」
(勅涕和歌集)

 獄中作
「縦天下称人賊生 天朝一容賜忠名 十年辛苦已既解 黙尤獄中待落成」
(一人一首伝)

 都のひとやにありて
「ひとやには梅も桜もなかりけり永き春日を何し暮さむ」
 辞世
「憂国十年 東馳西走 成否在天 魂魄帰地」
(殉難後章)
横田友治郎 
因幡
鳥取
藩士
<元治元年7月20日 六角獄で斬死 31歳>

 都の獄舎にて
「五月雨は降りまさりけるふる里の我がたらちねやいかにますらん」
(一人一首伝、殉難拾遺)
太田六右衛門
但馬 <慶応元年4月4日 獄死 43歳>

 都へ送らるるとき
「身の果てはいかにと思ふ心よりいとど身にしむ淀の川風」
(一人一首伝、殉難拾遺)
伊藤龍太郎
丹波
柏原
<慶応2年2月18日 獄中病死>

 をりにふれて
「たらちねに先だつ罪は重くともいかがはすべき天皇(すめらぎ)のため」(志士正気集)

 獄中詠
「事なきを祈るは人の常なれどやむにやまれぬ今日の世の中」
(一人一首伝、殉難遺章、志士正気集等)

「身はすてて身はなきものとおもふゆえひとやのうちの心やすさよ」(志士正気集)
木村愛之助 丹後
西久
<慶応2年4月 獄中病死>

「乱れたる糸の筋々くりかへしいつしかとくる御世となるらん」

 辞世
「いかにせん君は名ごりを惜しむかな今露じもと消ゆる身なれば」

(興集後集)
多田弥太郎 但馬
出石
藩士
<元治元年2月28日 藩地へ檻送の途中、浅間坂で刺殺 39歳>

 詠富士山
「蛮船蒸気逼神州 寧識孤峯表帝猷 万古依然東海鎮 晴空雪擁最高頂」

(一人一首伝)

 <参考文献>
『勤皇文庫 第五編 詩歌編』(大正10年)、『殉難録稿』(昭和8年)、
『維新志士勤皇詩歌評伝』(昭和13年)、
『志士詩歌集』(昭和17年)、『維新志士回天詩歌集』(昭和19年)

<小伝>

じゅんびちゅう。

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