| 文久3(1863) |
<要約>
| 禁門の政変に前後して、尊攘急進派浪士による討幕の挙兵が大和と生野で起こった。 文久3年8月14日、尊攘急進派の圧力により出された大和行幸の詔に呼応し、公卿中山忠能の子・中山忠光を擁した「天誅組」が、攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、大和で討幕の挙兵をした。17日には大和五條の代官所を襲撃して、大和を朝廷領とすることを宣言した。しかし、その翌日、禁門の政変が起きて、京都の尊攘派勢力は失墜した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命・幕命による諸藩の追討を受けて転戦を続け、9月下旬、吉野で壊滅した。吉野を脱出した中山以下7名は長州に逃れた。(A.大和(天誅組)の変) さらに10月上旬、尊攘急進派の平野国臣らが禁門の政変で都落ちして長州に滞留中の七卿のうち沢宣嘉を擁して、生野で挙兵した。しかし、14日には出石藩兵の攻撃を受けることになり、沢は脱走し、平野は捕縛されて、挙兵は失敗に終わった。残党は諸藩の追討を受けて四散し、多くは長州に逃れた(B. 生野(但馬)の変)。 |
| 幕府/ 京都 |
守護職:松平容保 |
所司代:稲葉正邦(淀) | ||
| 幕府/ 江戸 |
将軍:家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
首席老中: 水野忠精 |
老中:板倉勝静 |
| 朝廷 | 天皇:孝明 |
関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 |
文久3年8月14日、尊攘急進派の圧力により出された大和行幸の詔に呼応し、公卿中山忠能の子・中山忠光を擁し、土佐勤王党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、及び三河の松本奎堂を指導者とする「天誅組」が、攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、大和で討幕の挙兵を起こした。◆天誅組の決起
大和行幸の詔の下りた翌日の文久3年8月14日、公卿中山忠能の子、中山忠光(19歳)は方広寺に盟約のある同志を呼び集めた。 |
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| 幕府/ 京都 |
守護職:松平容保 |
所司代:稲葉正邦(30) | ||
| 幕府/ 江戸 |
将軍:徳川家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
首席老中: 水野忠精 (32) |
老中:板倉勝静 |
| 朝廷 | 天皇:孝明 |
関白:鷹司輔熙 (57) 内覧(9月〜):二条斉敬(48) |
国事扶助:中川宮 |
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大和挙兵中止説得に失敗した平野は、五条から引き返して京都に戻った。しかし、8.18の政変が勃発し、浪人取締が厳しくなったため、大和義挙応援のため、京都を脱出して但馬に向った。但馬には平野らの運動によって朝廷から農兵召募の許可が下りていたからである。
◆但馬農兵組織
但馬は、豊岡・出石の二藩と生野・久美浜代官所の支配地(幕府の直轄領)から成っていた。尊攘運動が盛んになるに及んで、幕府領の豪農中島太郎兵衛・北垣晋太郎、本多素行らは農兵を組織して北海の警備に当ろうと計画した。 |
| 志士詩歌 |
禁門の政変
公武合体体制の成立と参与会議
(2001/12/22, 2002.4.12)
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<主な参考文献> 『維新史』・『徳川慶喜公伝』
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