開国〜江戸開城トップ HPトップ

文久3(1863)

開国開城24.尊攘急進派の討幕挙兵:大和の変・生野の変 
(文久3年8月・10月)

<要約>

禁門の政変に前後して、尊攘急進派浪士による討幕の挙兵が大和と生野で起こった。

文久3年8月14日、尊攘急進派の圧力により出された大和行幸の詔に呼応し、公卿中山忠能の子・中山忠光を擁した「天誅組」が、攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、大和で討幕の挙兵をした。17日には大和五條の代官所を襲撃して、大和を朝廷領とすることを宣言した。しかし、その翌日、禁門の政変が起きて、京都の尊攘派勢力は失墜した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命・幕命による諸藩の追討を受けて転戦を続け、9月下旬、吉野で壊滅した。吉野を脱出した中山以下7名は長州に逃れた。(A.大和(天誅組)の変

さらに10月上旬、尊攘急進派の平野国臣らが禁門の政変で都落ちして長州に滞留中の七卿のうち沢宣嘉を擁して、生野で挙兵した。しかし、14日には出石藩兵の攻撃を受けることになり、沢は脱走し、平野は捕縛されて、挙兵は失敗に終わった。残党は諸藩の追討を受けて四散し、多くは長州に逃れた(B. 生野(但馬)の変)。

禁門の政変戻る
 次へ
公武合体体制の成立と参豫会議


A.大和の変
(文久3年8月〜9月)

幕府/
京都
守護職:松平容保 所司代:稲葉正邦(淀)
幕府/
江戸
将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 首席老中:
水野忠精
老中:板倉勝静

朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら

文久3年8月14日、尊攘急進派の圧力により出された大和行幸の詔に呼応し、公卿中山忠能の子・中山忠光を擁し、土佐勤王党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、及び三河の松本奎堂を指導者とする「天誅組」が、攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、大和で討幕の挙兵を起こした。

◆天誅組の決起

大和行幸の詔の下りた翌日の文久3年8月14日、公卿中山忠能の子、中山忠光(19歳)は方広寺に盟約のある同志を呼び集めた

忠光はかねてから尊攘急進派と交わり、文久3年2月には19歳で国事寄人の一人に任命されたが、3月、辞官・出奔して長州に下り、志士と往来していた。しかし、6月には京都に入って長州藩邸に潜み、翌7月には自邸に戻って謹慎生活を送りながら、真木和泉・久坂玄瑞・寺島忠三郎・吉村寅太郎らの急進派の来訪を受けて時事を論じていた。

方広寺には総勢38名が参集し、「数千の義民を募り候て御親征御迎えに参上仕り候」との決意をもって大和挙兵を決した。一行は京都を脱して伏見に到着し、吉村寅太郎が用意しておいた武具を船に積み込み、淀川を下り、17日には大和国に入った。

◆大和五條代官所襲撃

大和五條は天領(幕府の直轄領)で、代官支配地だった。天誅組は代官所を襲撃し、代官鈴木源内ら6名を殺害し、本陣とした桜井寺へ引上げた。天誅組は、翌18日、彼を鳩首し、<近来、違勅の幕府の逆意を受け、有志を弾圧し、朝廷と幕府を同様に心得、わずか300年の恩義を主張し、開闢以来の天恩を忘却せしめ、しかも、このために皇国を辱め、外国の助けともなることをわきまえず、収斂の罪も少なくなく、罪科重大であるので、誅戮を加えた(出典:『殉難録稿』・口語訳ヒロ)>との斬奸状を掲示した。鈴木は悪政を敷くこともなかった代官だったそうだが・・・。

さらに、<今後、五條は朝廷支配地になるので心得るように。祝儀として年貢は半減する>との大意の触書を発した。

◆平野國臣の説得

一方、中山らの計画を知った三条実美や真木和泉は、行幸直前に浪士が過激な行動を起こすことは望ましくないと考え、平野國臣に説得を命じた。18日、平野は安積五郎とともに大和に入ったが、すでに代官所を襲撃した後で、説得も空しく、京都へ戻った(安積は残留)。→生野の変へ

◆8.18政変と天誅組の孤立

8.18政変により、挙兵した天誅組は孤立した。政変の報が伝わると、一同は愕然としたが、十津川郷に義兵を募り、初志を貫徹することに決めた。十津川郷は南朝ゆかりの土地であり、幕府直轄領でありながら朝廷崇拝の心が篤く、文久3年4月には朝廷の直轄領としてほしいと願い出、6月には国事参政支配地となっていた。そのうえ、山深い地であり、天然の要害でもあった。8月20日、忠光らは十津川郷に向けて出発し、21日、天ノ川辻に布陣した。また、吉村寅太郎の召募に千名を超える十津川郷士が応じて天ノ川辻に合流した。

一方、政変で尊攘急進派の一掃された朝廷は、20日には、「朝廷の御用と称する浪士数十人が河内狭山当りにいるそうだが、朝廷とは無関係であり、早々に鎮撫するよう」との布達を出し、28日には郡山・彦根・津・紀伊藩に追討令を下した。幕府もまた、大和の諸藩に追討を命じた。

◆敗戦

●高取城の攻防
天誅組の那須信吾は、五條の高取藩に使者として赴き、彼らの行動は勅命によるものだとして兵糧の調達を求めた。高取藩では勅命でないとの報が届いたため、彼らの要求を拒否した。このため、天誅組は五條に引き返し高取城を攻撃したが、26日の戦いで惨敗し、再び天ノ川辻に退却した。そこで進退を議論した結果、ひとまず十津川山中に潜み、機をみて紀州新宮を討ち破って、船で四国・九州に渡り、再び義兵を募ることに決めた。

●十津川郷士の離反
朝廷は、9月1日、十津川郷士に対して、中山が勅使であるというのは虚偽であるとの沙汰を伝え、5日は天誅組を追討するよう命じた。天誅組は津藩の攻撃を受けて天之川辻を放棄し、南に退却したが、15日、郷士は天誅組の十津川退去を願い出た。天誅組は、紀州尾鷲に血路を開くことにし、19日、十津川郷を去って、険しい山道を西に向った。このとき、一行は四十余人ほどだった。

●天誅組の壊滅
天誅組は一度は紀州方面に向ったが、警戒が厳重だったため、吉野方面から大和に出ることに決め、24日、鷲家口に到達した。そこに布陣する彦根・紀伊・津藩の兵を突破することを試みたが、乱戦になり、脱出できたのは中山忠光ら7名だけだった。那須信吾・藤本鉄石・松本奎堂・吉村寅太郎らは戦死し、安積五郎らは捕縛されて翌元治元年2月に京都で処刑された。最初の討幕挙兵を起こした天誅組は壊滅したのである。なお、中山らは27日、大坂の長州藩邸に入り、中山だけが、さらに長州へと落ち延びた。
志士詩歌>>こちら

ページトップに戻る

B. 生野の変
(文久3年10月)

幕府/
京都
守護職:松平容保(29) 所司代:稲葉正邦(30)
幕府/
江戸
将軍:徳川家茂(18) 後見職:一橋慶喜(27) 首席老中:
水野忠精 (32)
老中:板倉勝静(41)
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇(33) 関白:鷹司輔熙 (57)
内覧(9月〜):二条斉敬(48)
国事扶助:中川宮(40)

大和挙兵中止説得に失敗した平野は、五条から引き返して京都に戻った。しかし、8.18の政変が勃発し、浪人取締が厳しくなったため、大和義挙応援のため、京都を脱出して但馬に向った。但馬には平野らの運動によって朝廷から農兵召募の許可が下りていたからである

◆但馬農兵組織

但馬は、豊岡・出石の二藩と生野・久美浜代官所の支配地(幕府の直轄領)から成っていた。尊攘運動が盛んになるに及んで、幕府領の豪農中島太郎兵衛・北垣晋太郎、本多素行らは農兵を組織して北海の警備に当ろうと計画した。

文久3年1月、北垣は上洛して、当時在京だった山岡鉄舟や清河八郎を通して幕府に農兵召募の許可を得ようとした。幕府は許可はしなかったものの、あえて反対はしなかった。そこで、真木和泉・久坂玄瑞・寺島忠三郎らを通して朝廷から許可を得ようとしたが、うまくいかず、一旦、帰国した。ちょうどその頃、薩摩藩士美玉三平が但馬に潜伏しており、農兵組織運動に参加することになった。美玉は真木・平野らを通して、再度朝廷の許可を得ようと運動し、8月16日、ついに攘夷のための農兵召募の許可を朝廷から得たのである。

◆生野の挙兵

●七卿・沢宣嘉と奇兵隊隊士らの参加
9月19日、農兵組織化の中心となってきた有志ら三十余名は、天誅組の大和挙兵に呼応する討幕挙兵をすることを決めた。翌20日、平野と北垣は都落ちした七卿を首領に戴くため、長州三田尻に向った。

平野は七卿に面会し、天誅組支援の挙兵を説いた。七卿は挙兵には概ね賛成だったが、庇護者の長州藩が自重策をとっていたため、表立って動けない状況だった。このため、七卿の一人、沢宣嘉が密かに長州を脱出し、挙兵に加わることになった。

10月2日、平野・北垣は、沢宣嘉と彼に従う河上弥市・戸原卯橘ら奇兵隊隊士を含む37名と共に三田尻を脱した。途中、天誅組壊滅の報に接し、一行は平野らの挙兵中止(潜伏・再挙)派と河上弥市・戸原卯橘らの挙兵派とに別れて議論となったが、挙兵論が通り、11日に生野に到着した。生野では、再び挙兵の是否について議論になった。平野・本多らはここでも挙兵中止を主張したが、結局、挙兵に決した。

●生野代官所占拠
翌10月12日未明、彼らは代官所を無血占拠し、沢の諭告文を発表して農兵を募った

先年開港以来、御国体を汚し奉り、小民ども困窮いたし候を、御憂い遊ばされ、度々関東へ攘夷の勅諚下され候えども、終に受け奉らず、朝廷を蔑如し奉り、度々毒薬を献じ候処、皇祖天神の保護に依り、玉体恙なく在らせられ候処、去る八月十七日、奸賊松平肥後守、偽謀を似て、禁門に乱入し、関白を幽閉し、公卿正義の御方々参内を止め、御親兵を解き放ち、言路を隔絶し、恐れ多くも今上皇帝、逆賊の囲中にあらせられ、実に千秋一時の一大厄を、恣に処置いたし候始末、倶に天を戴かざるの仇に候。嗚呼卒土の浜誰人か涕泣せざらんや、男子胆を張り、身を擲ち候は此時に候、但馬国は、人民忠孝之志厚く、南北の時節にも賊足利に与せず、皇威を揚げ、国体を張り候条聞召し上られ、兼ねて頼もしく奇特に思しめし候。早々馳せ集まり、大義を承り、叡慮を奉し、奸賊を平らげ宸襟を安んじ奉るべく候事。 沢主水正亥十月但馬国旧家有志人々へ

農兵は続々と集まり、その数は即日2,000人を越えたという。

しかし、代官所占拠の報を受けた出石・姫路二藩は直ちに出兵準備を行い、13日には出石藩兵900余人、14日には姫路藩兵1,000余人が生野に進んだ。

●沢宣嘉の本陣脱走と妙見山の自決

諸藩の兵に備えて、一党は生野に立てこもらず、街道の南北を防御することにしました。平野らは播磨口(南)に、河上弥一は奇兵隊隊士・農兵一隊を率いて天然の要害である妙見山(北)に陣を張った。ここで、再び生野の本陣では挙兵中止(解散)説が起こった。諸藩の兵が揃わぬうちに脱出すべきだというのである。本陣からは河上に使者を送ったが、河上は動かず、解散説は立ち消えとなったそうである。しかし、13日夜、首領の沢が、元出石藩士の多田弥太郎・入江八千兵衛らとともに本陣を脱出した。多田らに情勢の不利を説かれたからだともいう。沢は生野本陣の机上に、「頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にてありぬる」という一首を残していた。

沢脱出の報に接した河上らは、妙見山に留まり、諸藩の兵と一戦して討死する覚悟を決めた。しかし、翌14日朝になって、沢脱出を知った農兵達が、一党を偽浪士と罵り、ついには彼らを襲撃し始めた。農兵に包囲され、鉄砲を打ち込まれた河上ら13名は、もはやこれまでと自刃した。彼らはすべて奇兵隊隊士だった。

播磨口の平野は、沢の脱出を知ると同志に解散を告げた。脱出に成功した者もいたが、平野は捕縛された

その他のメンバーも切腹・戦死・捕縛され、捕縛されたうち平野ら11名は翌元治元年1月には京都の六角獄に送られた。7月、禁門の変の大火の際、新選組(または町奉行所役人)に殺害された。
志士詩歌

ページトップに戻る

 禁門の政変戻る
 次へ
公武合体体制の成立と参与会議

(2001/12/22, 2002.4.12)

<主な参考文献> 『維新史』・『徳川慶喜公伝』

 開国〜江戸開城トップ HPトップ