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やおい作品への利用(悪用)は絶対にやめてください。前例があり、深く傷ついています。

大和の乱(天誅組の乱) 編

「大和の乱」とは

<詩歌>

*享年、死に様は、慶応4年〜明治2年当時の編纂者が得た伝聞なので誤りのある可能性があります。

中山忠光
なかやま・
ただみつ
公卿 <元治元年11月15日 亡命先の長州で藩の刺客により暗殺 22歳>

「おもひきや山田のかがし竹のゆみ ひきもはなたで 朽ちはてむとは」
(殉難後章)

*「おもひきや 山田の案山子 竹のゆみ なすこともなく朽ちはてんとは」もある(出所は一人一首伝?未確認)

十津川にて
「君がため赤きこころをあらはして 紅葉とられやますらをの伴」
*『殉難録稿』所収。出典不明)
藤本鉄石  
ふじもと・
てっせき


備前
岡山
<文久3年9月24日 天の辻にて闘死 47歳>

「十津川の稲はら黒き落あゆは おちていかなる瀬にや立つらん
(殉難遺章)

九月十三日夕暮十津川長殿山を越ゆとて
「雲を踏みいはほさくらむ武士の よろひの袖にもみぢかつ散る」

辞世*
「君がため身まかりきと世の人に かたりつぎてよ峯の松風」
(志士正気集)

*(殉難遺章では「身まかりき」を「命しにき」としたものが松本の辞世とされている。勤王文庫では、藤本・松本それぞれの詩歌として掲載されている。どちらが詠ったものか判然としないようだ。ponpokoさんが教えてくださった情報によると、この歌は松本終焉の地の石碑に刻まれているそうだ。)
松本奎堂
まつもと・
けいどう
刈谷
脱藩
<文久3年9月24日 自刃 34歳>

「雀さへちうちうちうとなくものを など益良雄が忘るべきやは」
(殉難前章)

十津川にて討死しける時
「君がため命しにきと世の人に かたりつぎてよ峯の松風」
(殉難遺章)
*「君がため 身まかりきと 世の人に かたりつぎてよ 峯の松風」が辞世とされることもある。
宍戸弥四郎
三河
刈谷
<文久2年9月24日 闘死 31歳>
「先だちて色にもいでよ小さはぎはら しられぬ露は下に朽つとも」
(殉難続章)

十津川にて討死しける時
「今はただ何か思はむ敵あまた 討ちて死にきと人の語らば」
(殉難続章)
吉村寅太郎
よしむら・
とらたろう
土佐
郷士
<文久2年9月13日 自刃 24歳>(*9月27日に戦死。27歳)
「曇りなき月をみるにもおもふかな 明日はかばねの上に照るやと」
(一人一首伝、殉難遺章)

鷲家村にて血戦の砌
「秋なればこき紅葉をも散らすなり わが討つたちの血けぶりを見よ」
(殉難前章)

重卿(=吉村寅太郎)の京へ出立しける時(注:寅太郎の母の歌)
「四方に名をあげつつ帰へれかへらずば おくれざりしと母に知らせよ」
(殉難続章)

寅太郎が挙兵前に母に送った書簡
「両度の尊書有難く拝見仕り候、仰せの趣承知仕り候えども、人に後れ候ては、家を捨て国を去り候申訳ござなくと存じ奉り、此度天朝の御為め、中山公を大将として義兵を揚げ候間、追々御承悦仰付けられるべし、何卒、人を御うらみ遊ばされ間敷、御機嫌能く千年も万年も御長寿の程、只々祈上申候。久万弥をば文武精出し仕り候様、不断御教諭希上候。出陣がけ、右而巳申残し候。恐煌百拝

 八月十四日           吉村寅太郎

御母上様」

(『維新土佐勤王史』)
野崎主計 
のざき・かずえ
十津川
郷士
<文久2年9月24日 川津の山中で自刃 40歳>

「うつ人もうたるる人もこころせよ おなじ御国のみたみなりけり」
(殉難後章)
  隊長の命を蒙りて
「大君につかへまつれるその日より わが身ありとは思はざりけり」
(一人一首伝ほか)
安積五郎
あさか・ごろう
江戸 <元治元年2月16日 同志とともに刑死 37歳>

「ちかひてし心は同じ心にて おくれし身こそ悲しかりけり」
(殉難前章)

辞世
「おろかなる身にも弓矢の幸を得て みやこの花とちるぞうれしき」
(殉難後章)
鶴田陶司
つるた・とうじ
久留米
脱藩
<元治元年2月16日 同志とともに刑死 32歳>

「戦ひの花を散らして今よりは よみ路の月を見るべかりけり」
(殉難続章)
伴林六郎
ともばやし・
ろくろう

(伴林光平)
播州
伊丹
<元治元年2月16日 同志とともに刑死 52歳>

「花とさく金の御嶽もこころせよ 終には余所にちりもこそすれ」
「てりかはす月ともみぢの中山も へだつる雲の ある世なりけり」
「七草も千ぐさも仇になりにけり せめてはのこれ野辺の萩原」
「をりをりに底の浮藻をそそがずば うもれはてけむ堀川の水」
「畝火山その行幸(いでまし)を玉だすき かけて待ちしは 夢かあらぬか」
「月々に雲の旗手やなびくらん 幾野のさとの秋のゆふばえ」
「あだ浪はすそに時雨れて大丈夫の うち出の里も冬さびにけり」
「闇夜ゆく星の光もおのれだに せめてはてらせもののふの道」
「我が霊はなほ世にしげる御陵の 小笹のうへにおかむとぞおもふ」

(殉難前章)

「おほぎみの醜の御楯と身をなさば 水漬く屍もなにかいとはん」
(志士正気集)

きさらぎ十六日大和にて事挙したりし人々首はねられければ
「たぐひなくめづらしかりし初花を つれなくさそふ比叡の山風」
「ふきおろす比叡の嵐のはげしきに 若木のさくら散りも残らず」
「ますら男の心に花は咲きにけり 散りても四方に香は匂ひつつ」
「あめつちの神もあはれとおもへばや はれたる空の 雨となりなむ」
「やがて行く道とおもへばさしてまた さきだつ人はなげかざりけり」
「いたづらにながき日数をおくるかな みやこの春のはなも見ずして」

(歎涕和歌集)

京都に於て誅せらるるとき
「君が代はいはほとともに動かねば くだけて帰れ沖つ白波」
(殉難後章)
安岡嘉介 上州藩 <元治元年2月16日 同志とともに刑死 33歳>
獄中の詠
「古里を思ふ寝ざめにふる雨は もらぬひと屋もぬるゝ袖かな
(一人一首伝)
岡見留治郎 水戸藩 <元治元年2月16日 同志とともに刑死 22歳>
辞世
「武夫のやまと心をひととはゞ 国のあらしに散るぞうれしき」
(一人一首伝)
酒井伝治郎 久留米
<元治元年2月16日 同志とともに刑死 24歳>
偶作
「趙氏堂々万栄の尊、和親して豈夷藩を拝するに忍びんや。李公職を奪ひて故に生死す。後人の誓って苦言を献ずるなし」
(一人一首伝)
荒巻羊三郎 久留米
<元治元年2月16日 同志とともに刑死 24歳>
南山へ発途のをり
「もろともに君の御為といさみたち こゝろの駒をとゞめかねつゝ」
(一人一首伝)
渋谷伊予作 常陸
下館藩
<元治元年2月16日 同志とともに刑死 22歳>
十津川にて擒(とりこ)となりける時
「よしあはれ枯野の露と消えぬとも 魂は雲井にあり明の月」
(一人一首伝)
尾崎濤五郎 因幡藩 <元治元年2月16日 同志とともに刑死 23歳>
「武夫の赤きこゝろは紅葉葉の 散りての後のにしきなりけり」
(一人一首伝)
森下儀之介 上州藩 <元治元年2月16日 同志とともに刑死 33歳>
「咲きかけて散るや老木の帰り花」
(一人一首伝)
吉田重蔵
(田中
重治郎)
筑前藩 <元治元年7月20日 京獄にて刑死 33歳>
大和へ首途の時八幡宮に奉る歌
「八幡神皇国あはれとおぼしなば 内外のえみしはらえたまへや」
(一人一首伝)
乾十郎 大和 <元治元年7月20日 京獄にて刑死 27歳>
獄中の詠
「いましめの縄はちしのに染むるとも 赤きこゝろはなどかはるべき」
(一人一首伝)
水郡小隼人
河内 <元治元年7月20日 京獄にて刑死 39歳>
大和へ首途の時八幡宮に奉る歌
「八幡神皇国あはれとおぼしなば 内外のえみしはらえたまへや」
(一人一首伝)
石川肇 因幡
支藩
<元治元年7月20日 京獄にて刑死>
十津川の陣営にて
「今よりはたゝかひ馴れて益良雄が いづれ猛しとみがかざらめや」」
(一人一首伝)
保母建 島原藩 <元治元年7月20日 京獄にて刑死 22歳>
「ことしあらば我が名に負へる言の如 たけりてうたんえみし醜おみ」
(一人一首伝)

 <参考文献>『維新志士回天詩歌集』(昭和19年)、『志士詩歌集』(昭和17年)

<小伝>

じゅんびちゅう。

<参考文献>『維新志士勤皇詩歌評伝』、『勤皇文庫 第五編 詩歌編』
『徳川慶喜』(中公新書)、『幕末維新人名辞典』(新人物往来社)、『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)
『幕末維新 新撰組・勤皇志士・佐幕戦士たちのプロフィール』(新紀元社)

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