6 公武合体派の尊王旗 |
(2002/12/28の井戸端投稿より) 「慶応3年11月28日の今日」を書こうと越前藩の記録を読んでいて、びっくりしました。幕権回復派の会津藩公用人手代木直右衛門が呼び出されて幕権回復の主張をするところまでは読んでいたのですが、続きを読んで、ちょっと混乱しています。 実は、公議政体派の中に、慶喜が「尊王旗」をかかげ、親藩一同力をあわせて葵の旗を建て連ね、徳川は尊王の味方であることを示してはどうか、誰も抵抗できないだろう、という議論があったんです。しかも、そのときにまだ「私論」を主張するものは征討しても天が許すだろうというんです。尊王旗がどういうものかはわかりませんが・・・・これって・・・鳥羽伏見の「錦の御旗」と同じような考えですよね。公議政体派が先手を取っていれば、錦の御旗を出せたでしょうか・・・。知りたいこといっぱいです。(もしかしたら、これって、有名な話で、わたしが知らなかっただけなんでしょうか^^;?) しかも、そのときにまだ「私論」を述べるものは討つ・・・って、薩長の討幕派だけではなく、もしかしたら幕権回復派、つまり、会津も視野入っているんじゃないでしょうか〜。どうなんだろう、手代木に申し含めたこととかを読んでいるとそんな気がするんですよ。う〜ん。 *** そのうち、原文&書き下しを加えて覚書にUPしますね〜。 |