徒然トップ HPトップ

7. 続・慶喜とうなぎ:意外!開陽丸乗組員へのおごり?
去年の秋以来、ず〜っときになっていた、大坂から開陽丸で敗走した慶喜が江戸につくやいなや榊原をパシリにして鰻を買わせた事件・・・。慶喜は2分銀をあの榊原に渡し、榊原はそれに2分銀を足して鰻を買ったという話でしたよね(こちら)。2分銀+2分銀=1両になるわけですが、敗走してきたのにするにことかいて、まず鰻を買うってど〜ゆ〜こと?!という疑惑が(笑)。鰻の値段がわかれば何人分買えたのか、誰が食べたのかが想像つくかも・・・と思っていたのですが・・・。

最近、守護職(会津藩)や衛士/新選組を財政面やお金から検証したいなと思って江戸の物価を調べていたのですが、うなぎの値段ものっていました♪

江戸時代の鰻の蒲焼(上)は一皿200文。鰻飯(上)も200文だったそうです。幕末期の1両は約10,000文なので、鰻は50皿買えた計算になります。鰻の値段は慶応年間に値上がりがあると思うのですが、慶応年間の値段は不明です。ただ、大坂のうな丼は慶応年間にそれまでの200文から400文になっているので、同じように計算して400文に値上がりしていたとしても、鰻は25皿買えたことになります。

で、一皿に鰻がどれくらいあったかというと・・・路上の鰻は一串16文だったそうなので、並一皿160文として、10串くらいかしら?そうすると、50皿だと500串、25皿でも250串くらいあったことになりますよね?

慶喜は自分だけが食べたかったわけじゃなく、開陽丸に同乗していた幕臣や水兵たち(榎本艦長を置いて無理やり出航につきあわせた人たちともいう^^;)に、慰労の意味で江戸前鰻をご馳走するつもりだったのかも?(何人乗っていたのかなぁ)。だとしたら、ちょっとだけ評判挽回?でも、たぶん、慶喜も食べたと思うなぁ。江戸にまっさおな顔で着いたとかいう容保や定敬はどうしたかなぁ〜。

*ちなみに、江戸物価事典をみていると江戸でも銀がかなり流通していたようで、二分銀でも買い物できたかもしれません。


前へ  次へ

徒然トップ HPトップ