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9. 会津藩の天覧馬揃えと禁門の政変?
(2002/9/26の井戸端投稿に追加修正)

文久3年7月24日、会津藩に天覧馬揃えの朝命が下りました。その馬揃え当日の7月30日、大雨になったので会津藩は馬揃えは中止かと思っていたところ、強行の知らせがきました。尊攘激派が会津に恥をかかせようとしたともいいます。ところが、会津藩は短期間で見事に準備を整えて調練を行い、孝明天皇は大満足。激派は大変悔しがった・・・という有名なエピソードがあります。天皇の支持のもと会薩・中川宮連合によって激派が追放された禁門の政変の約2週間前のことです。わたしは、このとき、天皇(や中川宮・薩摩藩)にはこの馬揃えのときの会津藩のイメージがあり、あの会津藩となら政変も成功させることができるだろう・・・そう踏んだのではないかと思っています。

孝明天皇は天皇の権威の復活につとめた人ですが、それゆえに、自分のいうことをきかない激派、朝廷の上下関係を乱す下級貴族が我慢ならなかった・・・。それで、寺田屋事件で浪士を武力で鎮圧してくれた薩摩藩の島津久光がお気に入りで、4月には久光を上京させよとの密勅を下していました。しかし、5月に起きた姉小路公知暗殺で薩摩藩の勢力がおち、天皇の目は、天皇を崇拝する藩主容保と巨大な軍事力を備える京都守護職会津藩に向けらていれたのではないでしょうか・・・その会津藩は馬揃えで訓練された軍事力を強烈にアピールした・・・。

馬揃え後、孝明天皇は、公式にと内密に容保を称揚しています。内旨のほうは、実は、急な命令にも応じて軍事行動がすみやかに起こせることを頼もしく思っている内容になっています。これは、朝廷内激派の武力制圧を天皇が画策したときに会津藩なら応じられるだろう・・・という意味にもとれると思うんですよ。会津藩はこの内旨があったからこそ、薩摩藩が政変をもちかけたとき、天皇も政変をバックアップするだろうという確信をもって応ずることができたんじゃないかと思います。急な馬揃えは、結果的には、8.18政変のよい予行演習になったに違いないでしょうし。

もし、そうだとしたら、激派が会津に恥をかかせようとして画策した馬揃えは、逆に彼らの足をすくったことになっちゃいますネ。

関連:
◆文久3年7月24日−因幡鳥取藩の建議により会津藩に天覧馬揃えの朝命
◆文久3年7月30日−雨中、会津藩の天覧馬揃え決行
◆文久3年8月2日−孝明天皇、会津に対し、深く頼もしく思う内旨を口達させる
◆文久3年8月5日−会津・阿波・因幡・備前・米沢の五藩による天覧馬揃え/
◆文久3年8月13日−「攘夷親征」の詔(偽勅)公布/会薩連合の発足/

◆文久3年8月18日−禁門の政変(8.18の政変)


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