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5. 桜田門牛の変?!


『官武通紀・桜田騒動記』という本をもっているのですが、それに「桜田門牛騒動之図」という浮世絵がのっています。そこに書かれている文がなんと(笑)!

「モウ御免と桜田門」
「食べ物の恨みおそろし雪の朝」
「大老が牛の代わりに首切られ」


どういうことかというと、水戸の烈公こと徳川斉昭は病気で牛をスープにして食していたのだけれど、それには近江牛が一番ということで彦根から献上されていた・・・それが井伊直弼が藩主になったら献上が途絶えて、斉昭自ら頼んだのに断られたとか。斉昭が辱められたので、激怒した藩士が大老を襲撃した・・・ということらしい・・・です。

(「水戸藩党争始末」にも書いてあるらしいけど、「水戸藩党争始末」はみたことないので不明です。こういう戯画が作られていたんですね、当時^^;)

桜田門外の変については
「開国開城」「安政6〜7:勅書返納問題と桜田門外の変」
をどうぞ。

(2001/12/22)

4. 「お気の毒さん」だった将軍家茂の初上洛


一条摂家の侍臣下橋敬長の回想より


将軍秀忠(2代)、家光(3代)上洛時、将軍に対する朝廷の待遇は関白・三大臣よりも上、太上天皇扱いでした。天皇と同間で差し向かいで話したものでした。また、「牛車宣下」が赦され、御所の玄関まで乗りつけることができました。

さて・・・幕末の将軍家茂の待遇は・・・

■一度目の上洛

家茂の初上洛時は、朝廷内では尊攘激派の勢力が伸張しており、「よほど徳川さんの見識が落ちました、そこでひどいです」。待遇がどうひどかったというと・・・ひとことでいえば、関白・三大臣の下に置かれてしまったわけです。

参内 乗り物は公卿門(宣秋門)まで。そこから沓をはいて御所へ。
御所の間 摂家・親王と同じ麝香の間(関白・三大臣は小御所内)
料理 六位の蔵人の配膳(摂家・親王は同じ間で殿上人の配膳)
退出 非蔵人が履物をはいて送る(大臣・摂家が御簾下まで送るところを送らない)

(う〜む。食事など、同じ間で摂家・親王は殿上人の料理なのに将軍は下位の蔵人の料理。屈辱的だったんでしょうねえ。こういう「さりげないイジメ」、お公家さんらしい^^;)。

■二度目の上洛

二度目の上洛は、禁門の政変後。激派勢力が京都から一掃され、朝廷内も在京諸侯も公武合体派で占められていました。将軍には従一位内大臣が宣下され、天皇は、参内した家茂に対して「汝は朕が赤子」と信任を示しました。将軍の待遇も従一位内大臣扱いですから、初回とは比較にならないほど改善されました。(秀忠・家光の頃に比べると、格落ちの臣下扱いではありますが)。

参内 「牛車宣下」の復活
御所の間 麝香の間のまま
料理 殿上人の配膳
退出 殿上人の見送り

なお、将軍の待遇改善に関しては、守護職松平容保ほか在京諸侯が尽力しており、容保は素志が貫徹したことを喜び、感泣したそうです。

<参考>『幕末の宮廷』・『七年史』

関連:「開国開城」「将軍家茂上洛と大政委任問題」

(2001/12/22)

3. 「慶喜公逆上甚だしく神経過敏となり」

幕医松本良順の自伝より

文久3年の春、将軍上洛直前こと。江戸にいた良順は京都の大目付岡部長常(旧長崎奉行)から、将軍上洛に先立って至急上京するように・・・との緊急連絡を受け、順動丸に乗船して大坂に入り、京都の後見職一橋慶喜の旅宿に向うと・・・。

岡部がいうに「慶喜公逆上甚だしく神経過敏となり、侍臣等近づくべからざるの状なり。君等の来着を待つこと一日千秋の思いなりし

慶喜はなぜ神経過敏になっていたのでしょうか。将軍に先立って上洛した慶喜は、毎日朝廷に参内して「無謀の攘夷説国家を危うする」として断然開国互市(=通商)を主張し、尊攘激派と論争し、疲れ果てていたのだそうです。自伝の前後から察するに不眠症にもなっていた模様

診察の結果、良順は「アヘンを用いるほかなし」と診断し、丸薬にして処方しました。すると慶喜は一時間もたたないうちに眠りに落ち、雷のようないびきを立て始めたそうです。良順は翌日も診察に訪れたけれど慶喜は熟睡中で、午後1時半ごろになって目を醒まし、よく寝たので爽快な気分になっていたそうです。その翌日に再び往診すると、慶喜は欣然と「我が病すでに全く癒ゆ。自今来診に及ばす」と述べ、良順は将軍上洛までの1月余、ぶらぶらして過ごすことになったそうです(かなり無為に苦しんだ様子^^;)

(それにしても、よほどストレスがたまってたんですね。アヘンを一服したくらいで回復できてよかった・・・)。

<参考>『松本順自伝・長与専斎自伝』(東洋文庫)

関連:「開国開城」「後見職慶喜・総裁職春嶽の上洛と攘夷期限約束」

(2001/12/22)

2. 会津ミニネタ(2)「白虎隊の祟り」 byしーなさん


2001/08/26のしーなさんの井戸端投稿より

続いて白虎隊ネタです。
白虎隊の友人達の介錯役をつとめた西川勝太郎君はいよいよ、自分の番になりました。ふと見ると山下を通る農民が居りました。聞くと「滝沢村のものだ」との事。西川君はお願い事をしました。

「私たちの死体を深く山中に埋めてください。敵に首級(クビ)をとられたくないのです。幸いなことに私たちは皆、若干のお金を持っています。貴方にはこのお金と腰の大小を差し上げます。これが報酬です。」と言いました。農民が了承したので西川君は友人の後を追って自刃しました。

しかし、この農民は太ぇ奴だったのです。西川君のお願いを聞かず、遺体はそのまま埋めずに放置したのです。しかもしっかりとお金と刀は盗んでいきました。

おかげで白虎隊の埋葬を許されない死体は、腐乱し、風雨に晒され、野犬野鳥に食われ見るも悲惨な惨状となりました。やっと埋葬が許されたのがおよそ半年後のことです。

この話には後日談があります。死体がやっと埋葬されて、少したった頃、この農民は山道を歩いていて、落石にあいました。岩石は農民の頭蓋骨を圧傷してしまいました。農民はあちこちの医者に治療をお願いしました。しかし皆、こやつの「所業」を知っており、恨みを買っていたので誰も往診に行きませんでした。数日後、彼は発狂し「トラが・・・虎が来て私に噛み付く・・」と叫びながら死んでしまいました。

トラ・・・それは「白虎」だったのでしょうか。


1. 会津ミニネタ(1)白虎隊篠田儀三郎の「蛍狩り」 by しーなさん


2001/08/26のしーなさんの井戸端投稿より

会津の白虎隊ネタです。自刃した折の教導役(委員長、あるいは班長のような物とお考え下さい。)篠田儀三郎クンにまつわるエピソードです。

儀三郎クンが6、7歳のころのお話です。儀三郎クンはお友達と「蛍狩り」に行こうと約束をしました。しかしその日はあいにくの暴風雨でお友達はおうちに居りました。すると、門を叩く音がします。出てみると儀三郎クンでした。右手に蛍籠、左手には蛍を追うホウキを下げていました。お友達はビックリして「風雨このとおりで、ひとつの蛍もみえぬに、君は何故、訪(おとな)いに来たのか。」と、逆に問いました。すると儀三郎クンは答えました。「わたしは君との約(束)を守り、蛍の有無には構わず訪れたのである。風雨の為に蛍がいないならば、また蛍(狩)をしよう。」と帰って行ったとの事です。

篠田儀三郎については誠実そのもので、一度足りとも約束を守らないことは無かったと聞いていますが、小さい頃よりこういった子どもだったのね。可愛すぎる・・・・儀三郎クンたら。

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