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10. 「攘夷の巨魁」水戸烈公の開国論
水戸の烈公こと徳川斉昭は、ひたすら尊王攘夷を叫んでいたバリバリの頑固じいさんのような印象がありますが・・・実は、斉昭は開国論だったのです!!

松平春嶽の回想録(「逸事史補」)によれば・・・

「老公即斉昭公は、尊王攘夷の論を盛んにして、攘夷家の巨魁たりといふ。天下これをしらざるものなし。然れ共、尊王の意はあくまでも盛んなり、実に感ずべき事なり。夷を悪むのことは世人のしらざることありけり。初て米利堅ペルリ渡来の頃は、世上一般に外国人をにくむこと甚し。老公はさす賀に賢明の君にして、最早外国人と交際せねばならぬといふ事は、巳に着眼されたり。いかんとなれば、老公、我(慶永他)に贈る書中に云ふ、外国人交際の道、最宜敷事にてはなし。乍併、今の時勢いかんともすることあたはず、貴君(慶永をいふ)には、御少年之義にも候故、以来の御心得に可申候。とても攘夷など秘行候事は難出来、是非交易和親の道、可相開、其時は御尽力被成候がよろしく候。斉昭老年也、攘夷の巨魁にて、是迄世を渡り候ゆへ、死ぬまで此説は不替心得なり。貴君へ此事申入る(ヒロ訳:外国との交際はけしからんことではあるが、時勢なのでしかたない。あなたはまだ若いので今後の心得として申そう。攘夷などとても実行できるもんではなく、きっと通商・和親の道が開けるだろうから、そのときは通商・和親に尽力されるとよい。斉昭は年寄りであり、攘夷の巨魁として通ってきたため、死ぬまで攘夷説は変えない心得だが、あなたへはこのことを申し入れておく)との書状あり。これにて交易和親せねばならぬといふ事、攘夷論の不被行事をしり給ふは、さす賀なること於余は感賞せり」

(殿様が攘夷の不可能を知り、開国和親をひそかに応援していたことも知らず、一途な水戸藩士は殿様のため、攘夷のためにつっぱしったのですよね・・・。)。

2002/3/21

9. 大政返上の遠因はあの黄門さま
松平春嶽(回想録「逸事史補」)によれば・・・ペリー浦賀来航で外国通商が始まり、天下動乱を招いて大政返上になったというのは「浅近の考」えであり、大政返上の根元はその100年以上前、水戸光圀、「黄門さま」にあるのだそうです(水戸黄門です。隠居後の光圀の官位・中納言が黄門なので「黄門」と呼ばれました)。光圀は尊王を初めて称し、大日本史などを編纂させた人物であり、光圀自体は第一に尊王、第二に尊幕だったが、其臣下に至って幕府を卑しむとする心が生じることになったというのです。

よって、春嶽は光圀の「此一大見事を(大政返上・維新の)張本とすること」と結論づけ、水戸人の気概もここにあるとしています。

(やっぱり、「すべての道は水戸につながる」?!)

2002/3/21

参考:『逸事史補・守護職小史』

*水戸光圀について知りたい方はこちらのサイトへ

8. 仙台に殿なし・会津に家老なし
「仙台に殿なし、会津に家老なし」とのことわざがありますが、それは字面どおりの「仙台には明君なく、会津には賢相なし」との意味ではないそうです。

旧会津藩士小川渉によれば・・・

「会津は藩祖よりの掟が厳しく、いわば君主専制で家老職が断行できない法になっており、家老にそのひとありといっても、ただ補佐役に徹するだけでその功績は下々にはみえないのである。実際、代々の君公はみな賢明であられたので、その諺も当っている。一方、仙台はこれに反して、君主は事の大小に関らず一家一門とかいう門閥家に委任し、常事には関らない掟なので、君公の賢明は下々にはみえないのである。ゆえにこの諺ができたのだ、と古老が語っている」(口語訳ヒロ)なのだそうです。

(そういえば、守護職時代の会津藩、容保は特に賢明だというわけでもなかったし(あぁぁ・・容保ファンの方、ごめんなさい)、病床に伏せることも多かったので、家臣(公用方)が、京都政局で活躍していたはずなのだけれど、表にでてこないですよね。記録を丹念に読まないと、誰がどうだったのかわかりにくくなってきます。これも「会津に家老なし」なのかも・・・?)

2002/3/1

参考:『志ぐれ草紙』

7. 策略より至誠を尊しとした松平容保

松平容保は「至誠の人」と評されることがありますが、その「至誠」を端的に表している逸話をご紹介します。

会津藩が守護職として上洛してまもなくの頃・・・

肥後守容保は、一日諸臣を召して、叡慮の貫徹し難きと、大将軍委命の重きとを歎じ、奉公の順序を謀られしに、公用人小森久太郎進み答へて曰く、事に臨めばおのづから策略あり、処置の宜きを得る難きにあらず。願わくは賢慮を煩はさるる事なかれと。肥後守色を正うして曰く、策略は正道にあらず、至誠を以て、其順序を講究せざる可らず。事に當り、一時の通過を謀るか如きは、我が最も厭ふ所なれは、汝等何事も至誠に恥ぢさらん事を勉べしと

出典:『七年史』(原文の漢字は適宜当用漢字に変えています)

*この「策略」を放棄し「至誠」を講究する理想主義的方針が、幕府の京都政府ともいうべき京都守護職の職務に適していたのか、この方針が政局にどう影響していったか・・気長に検証していきたいと思いますm(_ _)m。

2002/3/1

6. 二本松少年隊のエピソード(1) byしーなさん 2002/1/25


井戸端の2002/01/12(Sat) 22:52:58 投稿より

二本松少年隊に成田才次郎という14歳の少年がいます。二本松の少年隊は会津白虎より少し、年齢が低いのです。ご存知の通り二本松は激戦区でした。才次郎も出陣しました。才次郎は大壇口と言うところに出撃しましたが、敗れて城に引き上げてくる時に、叔父さんに会いました。叔父はその時の様子をこう語ります。

「全身、血まみれで息も絶え絶え、まるで正気を失った人のようであった。だが、けなげにも「敵兵をもう一人刺してから死にます」と言って城の方へ向かった。」

才次郎が城下についたときには、すでに城は落ち戦いは終わっていて西軍の見回り兵(長州兵)らしい十数人が隊長とおぼしき人を中心にしてこちらに進んでくるのが見えました。

重症を負っていた才次郎は意識もうろうとしたまま、ふらふらと彼らの間に割って入りましたが、相手は誰もそれを遮ろうともしませんでした。いくさで頭のおかしくなった少年だと思われたのです。

その時突然、才次郎の目は輝きを取り戻し一気に隊長を突き刺しました。隊長はどうっと倒れ才次郎も倒れました。おどろいた長州兵は才次郎を引き起こしましたが、もう才次郎に意識はありませんでした。しかし、刺された隊長は瀕死ながらも「勇敢なる少年よ、これはわしの油断なり、手出しは無用。殺してはならぬ。」と部下を制したと言われています。才次郎も二度と目を開けることはありませんでした。

この長州の隊長の名前は白井小四郎(31歳)といい、亡骸は二本松の真行寺に埋葬されました。この時長州兵から才次郎の最後の様子が語られ、住職に「遺族にも伝えよ」と伝言しました。それが現在にも語り継がれています。

才次郎の父はお盆や命日には、必ず息子の墓参りをしましたがその前には、必ず白井小四郎の墓参りを忘れなかったとの事です。

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