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開国開城18: 将軍家茂上洛と大政委任問題
(文久3年3月)

<要約>

文久3年3月、将軍家茂が攘夷奉勅のため上洛した。後見職一橋慶喜は天皇に大政委任の再確認を求め、天皇から「すべてこれまでどおり委任」との勅語を得たが、鷹司関白が将軍に渡した沙汰書は「征夷将軍は委任するが国事は事柄により諸藩に沙汰」と限定的、かつ将軍を攘夷の責任者とするものとなった。尊攘急進派公卿の意を斟酌したからとされる。幕府側の工作は裏目に出たのである。A.将軍上洛と大政委任問題

一方、総裁職松平春嶽は将軍辞職・政権返上を主張したが、意見が通らないのを見て辞表を提出し、辞表が認められないまま帰国して総裁職罷免・逼塞処分を受けた。また、公武合体派から嘱望されていた薩摩藩国父島津久光も、上京したものの見込みがないと悟り、滞京5日で京都を去った。続いて前土佐藩主山内容堂・前宇和島藩主伊達宗城も帰国し、公武合体派連合計画は完全な失敗に終った。(B公武合体派の退京・引退

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賀茂・石清水行幸と長州の攘夷戦争


幕府/京都 将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽
守護職:松平容保 老中:板倉勝静 老中:水野忠精
老中格:小笠原長行 所司代:牧野忠恭
幕府/江戸 江戸城留守居:徳川茂徳(尾)
朝廷 関白:鷹司輔熙
内覧:近衛忠熙(前関白)
国事扶助:中川宮 参政・寄人:
三条実美ら

A. 将軍上洛と大政委任問題
(文久3年3月)


将軍上洛延期運動も不調に終わり、文久3年3月4日、将軍家茂が入京した(こちら)。将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽は、尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか実行不可能な攘夷の期限を4月中旬と約束していた。(→「開国開城16:公武合体連合策挫折と攘夷期限」)。

◆政令帰一(大政委任か政権返上か)

春嶽は、昨今の混乱(朝廷が攘夷期限設定を迫り、幕府は速やかに実行することが不可能だと知りながらも反論できないこと、また浪士の暴行を幕府が処理することは容易であるが、朝廷が「暗に其所為を庇護」するため放置せねばならないことなど)の原因は、政令が朝廷と幕府の二途から出ているからだとみた。そして事態の打破には、「幕府より断然大権を朝廷返上」するか、「朝廷より更に大権を幕府に委任」のどちらかに定めるべきだと考えた。そして、2月19日、慶喜らや中川宮の同意を得ると(こちら)、21日、慶喜・容保・容堂とともに鷹司関白・近衛前関白に二者択一の決断を迫ったが、関白らは、参政・寄人の激論やその後ろ盾となる「蔭武者」の存在を挙げて、決断をしぶった。そこで天皇に直接判断を仰ぐために、慶喜らを交えた御前会議を開いてほしいと申し入れても、自分たちだけでは決めかねると遠回しに拒否され(こちら)、将軍入京前に大政委任の沙汰を得ることはできなかった。この後、慶喜と春嶽の意見の違いは抜き差しならぬものとなっていった。

◆総裁職春嶽の将軍辞職・政権返上(大政奉還)勧告

総裁職春嶽の意見は将軍辞職・政権返上だった。総裁職春嶽は、3月3日、上洛途上の将軍家茂大津まで出迎えに行って辞職を勧告し、さらに家茂入京翌日の5日にも将軍辞職の意見書を提出した。その大意は「将軍上洛に先立って努力したが今日にいたっても何もできなかった。将軍がなにか別の案を持っているならともかく、そうでなければ将軍の職掌がまっとうできない旨を天皇に言ってすみやかに辞職するべきである」・・・つまり政権返上覚悟で攘夷はできないと断るしかないと言ったのである。もちろん春嶽自身も辞職するつもりだった。

◆後見職一橋慶喜の参内と庶政委任の勅語

これに対し、後見職一橋慶喜は天皇から大政委任の再確認を得ることで状況を打開しようと考えた。将軍上洛の翌3月5日、将軍名代として参内し、天皇に謁見して大政委任の沙汰を要請した。天皇は「庶政は従来どおり関東へ委任する存慮なり。攘夷の挙はなお出精すべし」と答えた。

しかし、慶喜がこれを書面にするよう鷹司(輔)関白に求めると、「大政」委任ではなく「攘夷御委任」という書取が渡された。慶喜は徹夜で強硬に抗議し、勅語どおりの書取を要求した。結果、関白は「征夷将軍の儀、すべてこれまでの通り御委任遊ばさるべし、攘夷の儀精々忠節を尽すべき」という書取を渡した。最初の「征夷将軍の儀」という部分は勅語にはなかったものの、慶喜はあえて異議を唱える必要もないと思い、これを受け取って二条城に戻った。

◆家茂の参内と反覆の沙汰書

3月7日、将軍家茂は慶喜らを伴って参内・謁見し、庶政委任の請書を提出した。ところが、これに対し、関白から出た沙汰書は、すべてを幕府に委任するという内容ではなく、征夷将軍については委任するが、国事については諸藩に直接沙汰をすることもあるとなっていた(「征夷将軍の儀、これまで通り御委任遊ばされし上は叡慮を遵奉し、君臣の名分を正し、皇国一致して攘夷の功を奏し、人心帰服の処置あるべし、国事については事柄によりて直に諸藩へ御沙汰を下すことあるべければ、予め示し置く」)。

そもそも徳川幕府の起こりから考えると、天皇から大政を委任されていたわけではなかったのだが、政令帰一を実現する方便として大政委任の勅を得ようとした幕府の工作が裏目に出たといえる。

関連■テーマ別文久3「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)

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B.公武合体派の退京・引退
(文久3年3月)


◆松平春嶽の総裁職辞表提出

政事総裁職の松平春嶽は将軍辞職・政権奉還以外に策がないとしていたが、自分の意見が容れられないのをみて、3月9日、ついに総裁職の辞表を提出した。その理由は、総裁職就任以来、公武合体の主意を貫くため心を砕いてきたが、不肖の身ゆえ、公武一和の筋が徹底せず・・・奉仕の目途も失い、危急の時節に職が務まらない」からというものであるる(こちら)。春嶽が辞職し、京都を去っては影響が大きいと、後見職の慶喜らは翻意を促したが、春嶽はききいれなかった。

◆春嶽の政権奉還論と退京・総裁職罷免

春嶽はさらに、15日、老中板倉勝静を呼び立て「幕府が自分の建議を容れないのは諸有司が姑息で、万一の僥倖をあてにし、政権を棄てることを惜しんでいるからである。いかに政権を失うまいとしても、行うべきでない攘夷や、払うべきでない生麦事件の償金について決定せずに空しく時を費やせば、天下の危難がたちどころに起こってとうてい政権を維持することはできない」といい、「将軍はすみやかに辞職して、こちらから政権を返上する覚悟を決めた上でこの難局にあたるべきである」と将軍辞職・政権返上論を説いた。板倉は春嶽のいうことももっともで慶喜に奏上すると答えたが、その後事態は動かなかった。春嶽は21日、ついに許可のないまま京都を出立し、国許に帰った。幕府は総裁職を罷免し、春嶽に逼塞処分を課した

◆島津久光ら公武合体派大名の帰国

春嶽が辞表を提出してまもなくの3月14日、薩摩藩国父島津久光が入京した。久光は近衛前関白(薩摩藩と姻戚で公武合体派)邸を訪ね、14条の建白書(攘夷の決議を簡単にしないこと、幕府へ大政委任することなど)を提出し、さらに外国拒絶をしないこと、尊攘派公卿に牛耳られた国事御用掛を廃止することなどを建議した。しかし、朝幕の反応が思わしくないことから見切りをつけ、朝廷・幕府に上書を出すと滞京5日にして18日に退京して大坂に下り、20日に大阪港を出て鹿児島に向かった

久光・春嶽に続いて、26日には前土佐藩主山内容堂、27日には前宇和島藩主伊達宗城が退京し、3月末までに公武合体派大名は京都からいなくなった

さらに、朝廷でも公武合体派の近衛前関白が内覧を辞し、朝政から去った。(中川宮も国事扶助辞職を願いでたが、こちらは勅許が降りなかった)。

◆公武合体派連合計画の完全挫折

将軍上洛に際して、幕府は、総裁職春嶽の主唱により、公武合体派公卿と薩摩藩国父島津久光ら公武合体派大名と連携して勢力挽回を図ろうとしていた。しかし、朝廷における尊攘急進派の勢力拡大とともに公武合体派の権力は急速に落ち、いままた、総裁職春嶽が政局から去り、公武合体派の大名もすべて退京し、春嶽の公武合体派連合計画は完全に挫折したのだった
関連■テーマ別文久3「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)」 

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賀茂・石清水行幸と長州の攘夷戦争

(2001/6/18, 6/22)

<主な参考文献>
越前藩関係:『続再夢記事』・『逸事史補・守護職小史』
会津藩関係:『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『会津藩庁記録』
慶喜関係:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』
その他:『官武通紀』・『大久保利通日記』
<主な参考専門書・一般書>
『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜増補版』

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