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15. 松平春嶽の人物評(1) 将軍(家慶・家定・慶喜)
■家慶
「凡庸の君にして、将軍の器量なし。老中水野越前守(注:天保の改革を行った水野忠邦)に愚弄せられたり」。

■家定
「凡庸中ノ極三等なり。ここにて衆人の思ふところにては、かかる天下多事の秋に当りて、かかる将軍の凡庸にては、天下維持することあたはず、ゆえに、明将軍を立てん事を希望す」。

■慶喜
「慶喜公は、衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるをしりて、家定公の嗣とならん事をひそかに望めり」。

「慶喜公は頗る有名にして、才智勝れ給ひて実に感佩するの人なれど、世間にてはこれをしる物はなけれとも、至って胆の小なる性質なり。夫故胆力小なるか故に決断する事ならず」。

参考:「逸事史補」『逸事史補・守護職小史』(カタカナは平仮名に変換しました)

(2002/4/30)

14. ある水戸藩士の自刃−戊午密勅返納をめぐって−
安政6年12月、水戸藩に降下された戊午密勅の返還命令が幕府より出されました。密勅返納をめぐり、藩内は分裂しますが、藩庁は返納と決し、安政7年2月25日、勅諚を奉じて江戸に赴くことになりました。藩内は動揺し、謹慎・蟄居を命じられていた尊攘激派は出奔し、中には城内に切り込んで藩の役人を斬り殺そうとした者もいたそうです。

この騒動の中で、斎藤留吉という藩士が、憤慨のあまり、城内で割腹しました。前面の白壁に『尽忠報国』と血書されていました。これを見て慄然としない者はなかったそうです。

藩庁はこのような藩士の激昂をみて返納を延期し、幕府も武力をもって回収しようとはしませんでした。そして、密勅返納騒動の翌週、3月3日に、桜田門外の変が起こりました・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』

関連:
開国開城:戊午の密勅と安政の大獄 <志士詩歌
開国開城:勅書返納問題と桜田門外の変 <志士詩歌

(2002/4/5)

13. 「世の中は桜の下の相撲かな」(木戸孝允/桂小五郎)
陸援隊に属し、維新後は宮内大臣等を務めた田中光顕の回想録より・・・


 それにしても、この維新大業の完成を目撃せずして、犠牲となって倒れた先輩及び同志の人びとに対して、私どもは深甚なる敬意を表せねばならない。私は、殉難同志の忌日には、その遺墨を奉安し、香をたいて、しずかに冥福を祈ることにしている。
 榎本、大鳥などは、順逆をあやまったにかかわらず、生命を全うしたるが故に、新政府の要路に立つこともできた。唯一専念、身命を賭して国事に奔走したわれわれの同志は、生命を全うせざりしが故に、むなしく祀られざる鬼となっているものもある。蒼然として、今なお、私の胸を打つのは、この一点である。
     世の中は桜の下の相撲かな
 木戸孝允が、かつて私に、こういう俳句をかいてくれた。
「何のことか、自分にはわからぬ」
 そういうと、木戸は笑っている。
「いいか、桜の下で相撲をとってみたまえ、勝ったものには、花が見えなくて、仰むけに倒れたものが、上向いて花を見るであろう、国事に奔走したものも、そんなものだろう、わかったか」
 随分、こじつけてはいるが、しかし、そういうこともある、木戸は、時事に平らかならずして、この一句に諷意をこめたのである。

 幸いにして生き長らえている私どもの事業としては、国家の犠牲となって倒れたこれら殉難志士の流風余韻を顕揚することにつとめねば相成らぬと深く考えている。


孫の田中光孝氏によれば、光顕は、動乱の生き残りとして、志士の遺墨・遺品・写真を収拾することに熱心でした。それらの遺墨が分散するのを恐れて、佐川文庫、常陽明治記念館、多摩聖跡記念館に寄贈されたそうです。田中は、『維新風雲回顧録』を著わしたほか、『水戸幕末風雲録』の編纂にも携わりました。

参考:田中光顕『維新風雲回顧録』

(2002/3/29)

12. ある彦根藩士の自刃-京都守衛罷免を抗議して−
京都の守衛は長らく彦根藩が担当していました。しかし、会津藩が京都守護職に任じられると、彦根藩は京都守衛を罷免されました。さらに、近江の領地蒲生・神崎を召し上げられました。

文久2年11月7日、彦根を出奔した藩士加藤吉太夫は老中井上正直邸に至り、幕府に抗議する嘆願書を提出して、玄関で自刃しました。

その懐中には詩歌を残されていたそうです・・・

「井伊藩加藤吉太夫 三十六歳
痛哭三年怨有余、君臣大義果如何、一刀是筆血是墨、為寫公家寃白書、

寝てすます 起ては猶も すまぬ世は 死より外の 道無かりけり」


参考:『七年史』

*加藤は足軽だったそうです。『七年史』では加藤が自刃死したように書かれていますが、『明治維新人名事典』によれば、加藤は藩老岡本半介の了解のもとに彦根を出奔し、井上邸に至ったのだそうです。井上家家臣に制止されて死にはいたらなかったそうですが・・・(『明治維新人名事典』もときどき間違いがあるので、どちらが正しいのかわたしにはよくわかりません)。

関連:
「今日」文久2年11月7日:彦根藩士加藤吉太夫、幕府に抗議して自刃
「資料」【彦根】自刃した彦根藩士加藤吉大夫の嘆願書
「開国開城」:「戊午の密勅と安政の大獄」 「勅書返納問題と桜田門外の変

(2002/3/28)

11 大名の気苦労(広島藩主の場合)(1)食事時
元広島藩主浅野長勲の回想録(『維新前夜』)によれば、大名生活もなかなか気苦労の多いものだったようです。たとえば食事どき・・・
  • 毎日平均して食事をとらないと面倒が起こる。ご飯を一杯でも少なく食べると、不調法はなかったかと聞かれ、医者に見せるという騒ぎにもなりかねないので、多く食べたいと思っても食べず、少なく食べたいと思ってもそうするわけにはいかなかった。
  • 食事の中に塵が落ちていたり不都合なものが入っていると大変である。鼠の糞が落ちていたりすると切腹ものであり、塵が落ちていても免職だからである。そのようなことがあった場合に、臣下を傷つけないために、小姓にも見られないようにそれを隠さなくてはいけない。
  • 料理は毒見をしてから出されるが、毒見役は毒見が仕事であり料理のよし悪しについては批評しない。従って、種々の手を経て大名の前に料理が届くころには、汁物などは冷たくなっている。
  • 親と一緒に食事をするときがまた大変である。親と面会のときは胸の間に視線を向け、敷物に座ることも許されない。食事中は親が食べるのを気づかれぬよう注意して見なくてはならない。親より先にお替りをしてはならないし、お替りのときはすぐに出すようしなくてはならないからである。
(2002/3/21)

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