競馬場では、よく馬券を持ったおじさんとかが「そのまま、そのまま!」って叫んでる。
あたしには、何がそのままなのか全然わからなかった。
それを知りたいと思ったのは……競馬関係の仕事をしている翔太さんの影響だった。

あたしは翔太さんにその言葉の意味を聞いた。
彼は丁寧に教えてくれた。
ゴール直前で自分が馬券を買った馬が先頭に立っていると、他の馬に後ろから抜かれないようにと、つい「そのまま!」と叫ぶのだという。
なるほど、と思った。
幸せな瞬間を握りしめたまま、それを本物の「幸せ」にできることを祈っているわけだ。

でも、大抵は幸せは本物にはならない。
人が持つ馬券はほとんど、ゴールと同時に何の夢も価値もない紙屑に変わる。
だからこそ、人は「そのまま」と願うのだ。

――あたしも、そうだった。

翔太さんは、隣の家に住んでいた16歳年上の男の人だ。
小さい頃はよくあたしの面倒を見てくれた。遊んでくれたり、いろんな話をしてくれたりした。
そんな時間が、永遠に続けばいいなと思っていた。
年は離れてても、あたしたちは「幼なじみ」――そんな風に、あたしは思ってた。
彼はあたしの初恋の人で、その恋は彼が競馬のトラックマンになって遠い美浦へ行ってしまっても、終わることはなかった。

だけど、あたしも大きくなって、寂しさがわかる年になった。
しかも、恋愛の身勝手さとかはまだわからない、微妙な年だった。
忙しいのはわかってたけど、年に1回くらいしか家に帰ってこない翔太さんに、イライラするようになってしまった。

それが限界に達したあたしは――17歳の冬、忘れもしない2027年12月17日の金曜日、学校をさぼって美浦まで飛んでいった。
携帯鳴らしたって、「学校はどうしたんだ?」って素っ気ないだけだもの。
翔太さんの知り合いだって言ってトレセンに侵入して、やっと彼を探し当てた。
驚く彼に、あたしはすかさず言った。……言ってしまった。
「翔太さん、なんであたしがこんなところまで来たかわかる? ……わかるでしょ? あなたに会いたかったの。あなたが好きなの……」

――でも、その後に幸せは続かなかった。
殺風景なトレセンを駆け抜ける寒い風が、彼の沈んだ声を運んできただけだった。
「……ごめん。それには応えられない。俺は、君のことをずっと妹だと思って接してきたから。これからも、君をそういう対象として見ることは絶対できないだろう」
「どうして? 彼女とか恋人とか、結婚の約束してる人とか、いるの? いるならあきらめるけど……」
「それはいないけど……でも、無理なんだ。もう君も、そんなことを考えたりしないでくれ。それじゃ」
彼は、昔から顔を知っている間柄にしてはあまりにも冷たく、あたしを置き去りにして去っていってしまった。

残されたあたしは――泣いた。泣くしかできなかった。
怒ることも、無理して笑うことも、できなかった。

想いを寄せる女の人がいなかったのに、あたしは受け入れてもらえなかった。
それはつまり、あたしに魅力がなかったってことだ――。
それがわかったあたしに、泣く以外の何ができるものか。

……翌日は学校は休みだったけど、あたしは昨日の無駄な1日を埋める目的でも持ってたのか、たったひとりで学校に行った。
そして屋上に上がって、柵の外に出た。
死にたいと思ったわけじゃなかった。
ただ、この悲しみを空に飛ばしてしまいたいだけだった。

――それなのに――。

あたしは、足を滑らせて屋上から落ちた。
まだ、翔太さんのいない世界になんか行きたくなかったのに。
下にあった柳の木を必死でつかんだけど、そんなの何の役にも立たない。
その下の県道にたたきつけられて、あたしは――それっきり、自分の体をなくした。

でも、魂は死ななかった。
運のいい要素が重なって、あたしは人間以外の動物としてなら1年間だけ生き返れることになった。
あたしはすぐに、デビュー前の競走馬……それも実力のある馬になることを選んだ。
いい成績を収めて有名になれば、翔太さんが取材に来てくれるかもしれないから。

あたしは馬になった。
あの柳の枝が残っていたために、あたしの競走馬としての名前は「ウィローズブランチ」と決まった。
とにかく強くなりたくて、一生懸命に調教に取り組んだ。
調教パートナーの騎手・僚さんは、すごくいい人だった。
彼と一緒だから、あたしは余計にやる気を出せたんだと思う。
そしてあたしはちゃんと結果も出して、オークスなんていう大きなレースまで勝った。

……それなのに、翔太さんは来てくれなかった。
どんなにたくさんの取材が来ても、その中に彼の姿はなかった。
まるで、「ウィローズブランチ」があたしだってわかってて、それで避けてるみたいに。

だけど――。
馬として1年間生きるうちに、あたしの心も成長して、こんな考え方もできるようになった。

あたしは翔太さんにふられたせいで死んじゃったけど、その結果、馬になってみんなにかわいがられて、大きなレースを勝つ喜びももらえた。
それを思うと、幸せな瞬間をそのままでいさせてくれない運命は、単に意地悪なだけじゃないんだなって。
人生、いいこともあれば悪いこともあるんだなって。

……もうすぐ、あたしの命日――12月18日がやってくる。
その日の正午に、あたしは馬じゃなくなる。
翔太さんには会えなかったけど、そのことに関してはもう悔しいとは思わなかった。

ただ――。
有馬記念を走れないのが、残念でしょうがなかった。
何としてでも勝って、あたしを1年間育ててくれた寺西厩舎のみんなにお礼がしたかったのに。
あと、せめて僚さんにくらいは、私が本当は人間だってことに気付いてほしかったな……。

……未練はないはずなのに、やっぱりこう考えてしまうあたしがここにいる。

ずっと「ウィローズブランチ」でいたい。
そのまま――。

 

 

そのまま

(隠しシナリオ No.20)


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