……競馬界の人間なんて、みんなどこかしらに問題点を抱えている。
自分勝手だったり、思いやりがなかったり、他人の気持ちに疎かったり――その種類はいろいろだけど、まともな人間なんかひとりもいない。
そう――私も競馬界で生まれ育った人間だけに、決してまともではないのだろう。
そもそも、祖父の代から東屋家は変わり者の集まりだった。
人嫌いなくせに獣医から調教師に転向した、祖父の雄一。
妻が愛想を尽かして出ていってしまうほどに研究熱心な、父の隆二。
そんな中、唯一まともだったのは、「競馬界の人間は信用できない」と言って遠くに去った、父の兄の駿一伯父さんかもしれない。
その血を引いている私は、果たしてどうなのだろう。
……昔は、自分は違うと思っていた。
父のことは好きだが、自分はああはなるまいと考えていた。
母が出ていってしまったため、父には子供は私ひとり。私が代々続いた獣医にならなければ、変わり者になることもないのではないか――。
そんな理屈だろうか、私は恋愛や結婚に対する願望が人一倍強かった。
夫のために家事をこなし、趣味は料理とお菓子作り――そんなごく普通の「お嫁さん」を夢見ていた。
そんな私に初めての「恋人」ができたのは、14歳の頃――早生まれの私は中学3年だった。それが早いか遅いかは、他人の恋愛に興味を持たない私にはわからない。
相手は、祖父の厩舎に所属していた騎手だった。私よりひとまわり年上の、当時26歳だった。
その頃の東屋厩舎には篠崎剛士という中堅騎手がいて、彼はその篠崎の影に隠れて今ひとつ目立った活躍ができずにいた。
それでも私は、彼を信じて応援を続けた。いつか必ず素晴らしい騎手になれる、そう彼と自分の両方に言い聞かせて。
――それが、裏切られることになるとも知らずに。
その年の7月、夏の福島開催のときだった。
彼が福島競馬場で騎乗するので、私も父の車に乗せてもらって応援に行った。
私には検量室やジョッキールームに入れるだけのコネはあったが、それのお世話にはならなかった。あくまでファンのひとりとして、彼の活躍を客席から見たかったのだ。
福島の検量室はウィナーズサークルのすぐ前にあり、一般客が中をのぞけるようになっている。もちろん客にのぞかせる目的で造られたわけではないが、騎手の追っかけには大好評で、常時2、3人ほどは、中をチェックして「あ、あの人がいる!」などと黄色い声を上げている女がいる。
そして私も、そのウィナーズサークルの前でレースを観戦していた。
ところが――。
彼があるレースを終えて検量室に引き上げてきたとき、その検量室内で事件が勃発した。
中にいた男性職員のひとりが何かに逆上し、備えつけのキッチンにあった包丁を持って暴れ出したのだ。
その職員は、なんとこともあろうに私の恋人を人質に取り、彼の喉元に包丁を突きつけながら外に出てきた。
彼は男性にしては気弱な方だったので、職員に抱えられながら、もう顔を真っ白にしていた。
……彼を助けられるのは私しかいない、そう思った。
そして私はいきなり柵を飛び越えて検量室前に出ると、その職員に申し出た。
「彼を解放して、私を人質にしなさい! 女の方が扱いやすいでしょう!」
それは受け入れられた。
彼は職員の手から逃れてその場にへたり込み、私は彼の代わりに包丁を突きつけられ、そのまま人目につかない裏へ連れていかれた。
怖かった。でも、彼を助けられたのだから、殺されても悔いはない……。
ヒロインにでもなりたかったのか、若い私はそんなことを考えていた。
――結論から先に言うと、私は無事だった。
警察が来ると、職員はあっさり投降して逮捕された。
同時に私には「無謀な女」という称号がついた。誰も動けない状態でただひとり近づいたのだから、確かにそれは勇気というより無謀だろう。
しかし――私は無事でも、彼は無事ではなかった。
彼に対する事件後のバッシングはひどかった。「中学生の女に助けてもらうなんて情けない」――と。
さらにそれはあちこちに飛び火し、「そんな情けない男には馬はまかせられない」というところに話は行ってしまった。
もともと目立つ活躍ができていなかった彼には、その悪評を振り払うだけの後ろ盾はなかった。
彼の活躍の場はどんどん狭くなっていった。
そしてある日――彼が私にこう言ったのだった。
「なんてことをしてくれたんだ。俺にこんな屈辱的な思いをさせて……。こんなことになるくらいなら死んだ方がましだ。君は東屋先生の孫のくせに、そんな気持ちもわかってくれてなかったのか」
……私は、彼を心から愛していた。
彼を助けたかった、ただそれだけなのに。
それなのに――彼は私よりも自分のプライドや仕事の方が大事だったのだ。
私たちは別れた。
泣くことは、できなかった。
翌年、仕事を完全になくした彼は、引退を余儀なくされた。
引退後、彼は競馬サークルには残らなかった。誰にも行き先を告げずに美浦を去って、それっきりだ。
――私は心を凍らせた。
所詮、競馬界の人間なんて自分勝手の集まりなのだ。
相手の気持ちより結果が大事で、それが自分に有利に働かなければすぐ相手を責める。
刹那的な快楽と、虚栄心の塊。
競馬界が憎くなった。
そこで暮らす人間が憎かったし、自分がその中の一員として生まれてきたことも悔しくてたまらなかった。
それならば、私も競馬界を出て全然違う仕事を探せばよかったのかもしれない。
だが――私は逆に、それがあってから「父の後を継いで獣医になろう」という気持ちがふくらんだのだった。
そして、現在に至っている。
間違いを間違いのまま野放しにはできない。
好き勝手に生きる裏側には私のような悲しみを抱えている人間がいることを、わからせなければならない。
多少、手荒な真似をしてでも――。
悲しみの代償
(隠しシナリオ No.13)