多重人格、という言葉がある。
人間ひとりの体の中にまったく異なる人格がいくつもひしめき合っている状態で、時間によって不規則に違う人格が表面に出てきて、他人から見るとまるっきり「別の人間が憑依している」としか思えないそうだ。
それらは病気やトラウマなどによって起こるとされている。
逆に言えば、病的な原因によらないものは、多重人格とは呼ばないらしい。
では――。
私の場合も、そうは呼ばないのだろうか。
自らの人格と存在に疑問を抱き、あえて自分の中に違う人格を創り出し、それを常に身にまとって生きている私の場合は――。
中学生の頃、私は手のつけられない非行少年だった。
煙草を吸い、酒を飲み、ポケットにナイフを入れて持ち歩き、同級生を脅して金を巻き上げる。小学生の頃に格闘術を習っていてケンカの腕に自信があったことも、それに拍車をかけた。
ただ、私にもポリシーがあり、「カタギの生徒」は絶対巻き込まなかった。狙うのは自分と同じ非行少年少女ばかりだ。それで自分を「道徳的な非行少年」だなどと思い込んでいたふしもあり、実にタチが悪かった。
敵とは闘い、仲間とは毎日ギャンブルをやって大金を動かす。学校にもろくに顔を出さず、当然先生からは煙たがられていた。先生の方も、私を改心させるどころか、「そのうち普通の生徒にも被害が及ぶに違いない」と考え、どうやって私から生徒を守るかを考え始める始末。
……そんな中、同じ中学にただひとり、私に優しかった女の子がいた。
「私は浅霧くんを理解できる人でありたいの。これからもよく話しかけていいかしら」
どういうわけか、そんなことを言って笑った。
彼女の名前は花梨。クラスの男連中の間でも人気の高い、親切でかわいい女の子だった。
なぜそんな、男なんか選び放題の立場の子が、よりによって私なんかを――。
彼女の気持ちはわからなかったが、優しくされて喜ばない人間はいないとはよく言ったもので、非行少年もそれには弱かった。
私は毎日学校に通うようになり、彼女と話をした。
花梨は競馬が好きだった。意外だったが、どうやらお気に入りの騎手がいたようだ。
「私が応援している女性騎手の娘が、今年騎手学校に入ったの。デビューが楽しみ」
中学3年になった頃にそう言っていたところからして、おそらくその騎手は篠崎真理子さんだ。
さらに花梨は、私にこう言った。
「ね、浅霧くん。あなた騎手になったらいいわ。体が小さくて体力はあるんだもの。絶対向いてるわよ」
私にとって競馬とは、ギャンブル以外の何物でもなかった。中学生にして仲間と競馬を見て賭け金を積み、馬の名前ではなく「ピンク、ピンク!」とか「8番来い!」などと叫んでいた私。おまけに素行不良だ。馬を愛する騎手になど、なれるはずがなかった。
が、私にとって花梨は特別だった。そういう未来もあるのかなと、次第に自分に聞かせるようになった。
――ところが。
それに反比例するように、花梨は変わっていった。
髪を染め、制服の改造をした。態度も反抗的になり、盛り場に連れていってほしいと私に頼んだり、煙草を1本欲しいとせがんだり。
実に勝手な話だが、私は自分がそういうことをしていても、花梨にはそうなってほしくなかったのだ。
だが――彼女は確実に非行化し、夏を過ぎてからは学校に来なくなってしまった。
どうやら、夏休みの間にどこかのヤクザの女になったらしい――そんな噂だけが、流れてきた。
彼女がそうなった理由として、私のそばにいたからだという見方をする人は、意外なことにいなかった。
どうも彼女の家庭に少々問題があり、遅かれ早かれこうなるだろうという見方を、周囲はしていたようだ。
……だが、やはり私の影響がなかったとはとても言い切れない。
もし私がごく普通のまともな男子中学生だったら、彼女に影響を与えないどころか、救ってあげることもできただろうに――。
私はこのとき初めて、自分が道を外れて生きてきたことを悔やんだ。
周囲に「まじめにやれ」とか「今に後悔する」と叱られても反発することしかしなかった私が彼らの気持ちを理解した、最初の瞬間だった。
2学期に入ると、私は態度のすべてを改めることを決意し、先生のところへ行って土下座をした。
さぼっていた分の勉強をしたいから、一から教えてほしいと。
いくら最近の教師は教育への熱意がなくなっていると言われていても、やはり先生たちも人間。こっちが真剣に頭を下げればわかってくれる。
こうして私は、授業の他に早朝と放課後も使って、数ヶ月で3年分の勉強を詰め込んだ。
同時に、私は競馬学校を受験したいと申し出た。
それは受け入れられた。
私は秋の終わりに競馬学校を受験し、そして――競馬学校にも、受け入れてもらえた。
翌年の3月、私はごく普通の中学生として中学を卒業した。
花梨は、とうとう卒業式にも顔を出さなかった……。
……しかし。
最後に花梨に会えなかったことは、私の胸を思いのほか苦しめた。
もし、あの頃の自分がいなければ――。
忘れ去るだけでは不充分だった。私は過去の自分を、完膚なきまでに殺してしまいたかった。
だが、過去は必ず現在とつながっている。現在の自分が別人にならない限り、過去の自分さえも変えることはできない。
――それがわかった私は、競馬学校を卒業して騎手になった頃、ある大きな決意をした。
「浅霧直哉」を殺してしまおう。
そして、それと正反対の人格――私に優しかったあの頃の花梨になろう。
私は「浅霧花梨」になった。
こういうことをした騎手はさすがに前例がなく、最初は戸惑われたが、中学3年分の勉強を数ヶ月で詰め込めた自分ならば努力で何でもできる、と言い聞かせて、認めさせようとがんばった。
その結果、私は今の自分を受け入れてもらうことに成功した。
私はニューハーフ騎手・浅霧花梨――。
でも、周囲が私をその名前で呼ぶとき、一抹のせつなさも隠せない。
花梨は――本物の花梨は、今の私を知っているのだろうか。
競馬が好きだった彼女は、今の私を見て何を思うのだろうか――。
そんなことを考えるのは、やはり私の中にまだ「浅霧直哉」の人格が残っている証なのだろう。
なくしてしまいたい過去。
しかし、それにはあまりにも想い出のこもりすぎた過去。
時折、自分の存在が不安定になる。
そして、それを直す方法を、私はまだ知らない――。
多重人格
(隠しシナリオ No.14)