――遠い昔。
最悪の選択肢を選んじまったことを後悔し、俺に相談してきたやつがいた。
そいつは……片山伸は、愛する桂木真理子が篠崎剛士と仲よしなのを見てジェラシーに駆られ、当時の値段で20万くらいの桂木のブローチを、篠崎が持っていたときに奪い取ったのだ。
実は俺はその「犯行」には気付いていたのだが、動機を「金目当て」だと思い込み、そんなことのできる片山は親友ではない、と思おうとしていた。
だが、片山の本当の心を知って、俺はやつの味方でいてよかったと思った。
もちろん金品を奪い取ったのはとんでもないことだが、それをずっと悔やみ続けていたあいつは、本物の悪人などではない。
結果的にあいつは、そのブローチをきちんと桂木に返した。
そして、自分なりの償いをする方向で今も生き続けている。
その頃から、俺は「選択肢」「分岐点」という言葉に敏感になった。
自分がどういう道を選び、その先に何が待っているのかを、深く考えるようになった。
考えるようになっていたのに――。
俺の最悪の分岐点は、それから何十年も経ってからやってきたのだった。
それは、自分と他人のどちらかを選ぶような分岐点だった。
そして――人間とは概してそういうとき、自分を犠牲にして他人を選ぶことなどできないものだ。
……俺も、そうだった。
仕事で成功したい――これは競馬界の人間ならば誰でも思うことだ。
また、思わなければならないことでもある。
向上心がなければ、競馬界で仕事をしていても逆に他人の迷惑になる。
俺はそう信じていたし、その気持ちは誰よりも強かった。
おかげで、俺は騎手として大成功を収めた。
2000勝以上を稼ぎ、40歳で引退して調教師になる道を選んだ。
なぜ40歳か――それは、師匠の高遠先生の定年引退がその翌年だったからだ。
俺は通算勝利数により、よほどやばい事件でも起こさない限りは確実に調教師免許をもらえる立場にあった。ここで引退し、1年間の研修を終えれば、ちょうど高遠先生の厩舎の管理馬を引き継ぐ形で調教師生活を始められる。
……高遠先生は俺に、引退するのはまだ早いとおっしゃった。
実は俺もそう思っていたのだが、将来のためには今が絶好のチャンスだと思ったのだ。
だが――俺にはわかっていた。高遠先生が俺に「引退するな」とおっしゃったのは、俺のためではないことを。
高遠先生には、彼の厩舎で厩務員をしていた、俺より5歳年上のひとり息子がいた。彼も「自分は調教師を目指している」と言っていた。そうなると、やはり先生は他人の俺ではなく、彼を後継者にしたかったのだろう。
現代の競馬界では、同じ一族や所属グループからは、原則としてひとりしか調教師になれないことになっている。自分で言うのも何だが、俺はこの実績を持っているから、例え先生の一族から先に調教師が出ても例外的に扱ってくれるだろう。
だが、高遠先生の息子は厩務員。俺が先に調教師免許を取れば、彼は調教師への道を永遠に閉ざされてしまう。そのため、もう少し待ってくれと先生はおっしゃったのだ。
……しかし、俺はそれを受け入れなかった。
理由はひとつ。先生の管理馬を引き継いだ方が最初から手駒がそろい、順調なスタートが切れる――ただそれだけの、利己的な話だ。
俺は予定通り、40歳で計画的に引退し、同時に調教師免許をもらった。
高遠先生の息子は、自分の未来を奪われたことをショックに思い、酒をあおって車を走らせた。
そして――帰らない人となった。
彼の死後、彼がどれだけ調教師になることに人生と情熱を賭けていたかを知った。
俺は自分のためだけに、彼の生きがいばかりか、命まで奪ってしまったのだ。
しかも、彼のひとり娘・きっかはまだ20歳そこそこだった。そんな年でひとりぼっちは、さぞつらいことだろう……。
最悪の選択――。
片山はかつて、ブローチを奪ったことで、「篠崎を一度殺したようなものだ」と言って頭を抱えた。
だが……俺はそれ以上のことをしてしまった。
正真正銘、ひとりの人間を死なせてしまったのだから。
償いなど、到底できそうになかった。
いっそ、俺も彼とまったく同じ方法で自殺を遂げようか――そう真剣に思っていた時期もある。
……そんな俺に生きる気力を与えてくれたのは、皮肉にも高遠きっかだった。
彼女は競馬学校の厩務員課程に入学した。厩務員になって競馬界に入り、やがては調教師免許を取って父の無念を晴らしたいのだろう――それはすぐにわかった。
俺の人生には、新たな分岐点とその先が現れた。
心から惚れる女に出会わなかったため、俺はついに独身のままだった。自分の子供がいない俺ならば、好きなやつを後継者にできる――。
俺は競馬学校と競馬会にこっそり話を持ちかけ、きっかを自分の厩舎に配属してもらうように頼んだ。
それは受け入れられ、厩務員となったきっかは俺の厩舎にやってきた。
彼女は、俺のことを憎んでいるはずだ。それは間違いない。
だが――彼女は、そんな思いなどまるで持っていないかのようによく働いてくれた。
俺のために手のかかる料理を作ってくれたり、洗濯をしてくれたり――まるで、叶わなかった「妻に家事をやってもらう」という経験を今になってしているような、そんな錯覚さえ覚えるほどだった。
……わからない。
きっかはなぜ、俺にそんなに優しいのか。
そうしておけば、俺が将来自分を後継者にしてくれるかもしれないと考えているのだろうか?
そんなことをしなくても、俺の心はもう決まっているのに――。
篠崎と桂木の間に生まれた娘・真奈を騎手見習いとして預かってからは、俺はやつを育てることに一生懸命になった。
きっかの顔を間近で見るのは怖かった。
その優しい瞳の奥に、本当は俺への憎しみがある――それを認めるのが、怖かった。
……人間には誰にでも、人生の重要な分岐点がある。
きっかの分岐点は「厩務員になって競馬界の人間になる」ところだったと思う。
俺は彼女を自分の厩舎に入れ、やがてはここをまかせるという計画を立てたが――。
果たして、俺の選択と彼女の選択は、先でつながっているだろうか?
つながっていてほしい。
それこそが、今の俺の新たな生きがいなのだから――。
続・遠い分岐点
(隠しシナリオ No.4)